ねぇ!!!!!!!!!やばい!!!!!!!!うたプリ!!!!!!!
すごい!!!!!!!!!!!!
先生までスーパー魅力的なんですが!!!!????
鼻息荒く始めざるを得ないですよ、こんなん。こんなん!!!
ということでスタツア出新規のゲームプレイ日記(?)、AASSLの月宮林檎√です...!
お正月だし、知らない人をやってみよ~とかで始めて、全然評判を聞いてなかった林檎先生√でびっっっくりしました!あけましておめでとうございます!本年もうたプリを楽しんでいきますっ!!!!!!!!
なんか月宮林檎がかっこいいしプロだしAクラの担任だしで大好きになってしまい、勢いで書いてるので、幻覚というか「お前がそう思いたいだけじゃね...?」みたいな所がたくさんあるかと思いますが、私の月宮林檎は私に明日への活力をくれるかっこいいアイドルなので!!!!!
そういうことでお願いします!!
しかも私は興奮すると理屈こねたくなるタイプなので、こねてます!!
なんでもOKな人どうぞ!
=====
一言でいうと、
視線の√!!!
「うたの」プリンスというだけあり、しかもゲームは音声が主たる情報で視覚情報は立ち絵とスチルで音よりも圧倒的に少ない。
だけど、アイドルにとってやはり欠かせないのは「視覚情報」。
林檎√は、恋も、そして仕事であるアイドル稼業も、みんなこの「視覚」と「視線」がキーワードだと思いました!
なぜなら、月宮林檎というアイドルは、視線を意識して「パフォーマンス」することに長けているアイドルだから。
ソングステーションを見学したハルちゃんは
どうすれば自分を素敵に見せられるのか、どう見せれば喜んでもらえるのか。すべてを計算して歌い、踊っている。
見せたい自分と、他人が見たい自分の違いをわかっていて(中略)他人が見たいものを、選んで見せる。その姿に感動した。
と林檎先生を評しているように、月宮林檎は「視線」に敏感で「視線」をうまく扱うことのできるアイドル。
これっても―――うめちゃくちゃ「アイドル」じゃないですか。
「見られること」に敏感で、「見られること」を大前提としたうえで、ただただ受け身に「見られている」のではなくて、「じゃあこうやって見てよ」と提示する。
「見られる」という客体になることは受け身なことだし、自分でコントロールできないことだけど、ただただ客体に留まるのではなく、「提示」する。単純な二分法(見る/見られる)(客体/主体)では分析できない、かといってアイドルが「受け身」側に回ることは間違いないので、いささか悪趣味で危険な、アイドルとファンの間の「視線」。
これをやりくりしているのが、月宮林檎。
「視線」がキーワードだと確信したのは、Chapter4で写真を撮りに行く所。
「見られる側の気持ち、わかった?」と聞く月宮林檎は、まさに「月宮林檎」の神髄をとても簡単な方法で教え子に伝えている。「視線」を扱うプロだ。
ハルちゃんも聡い子なので、このレッスンの意味をばっちりと理解する。
人前でパフォーマンスをするということ。見られているというプレッシャーを負いながら、それ以上の魅力を出さなくてはなりたたない。そのうえ、クラスメートがライバルになったり、仲が良くても、ランキングや売り上げみたいに目に見える形で競争にまきこまれたり。強くならなくちゃ、そこにいるだけで潰れてしまうような厳しい世界。
アイドルという仕事が、常に「視線」を意識し、「パフォーマンス」をすること。何より、「見たい自分」の存在を意識してそれを読み込んで、自分で自分をパロディするように「上映」する。
そういうアイドルの側面を、ハルちゃんは林檎先生とのフォトセッションで理解する。
ほんっと、音楽という聴覚でつながることが多いうたプリの世界において、こんなにも「視覚」の√が存在するなんて思わなくって感激した.......。
アイドル感度高すぎる............。
で、ここで大事なのが、月宮林檎が「女装アイドル」であること。
そして、ハルちゃんとの関係が「女の子らしさ」を通じて発展していくこと。
ユニットソングのアドバイスで「ファン層は女の子」とアドバイスするのは視線に敏感な「月宮林檎」らしいアドバイスで、その後、なぜかハルちゃんをドレスアップさせることになる。
月宮林檎は、「女装アイドル」であって、仕事として「女性らしい」装いをしているだけで、心身ともに男性で異性愛の男性である。その彼が、「女子力」を心身ともに女子であるハルちゃんに教えてくれる。
あ~~~笑 「女らしさ」の正体、ここに現れり!って感じのまるでジェンダー論の教科書の1ページ目ですか?って笑ってしまったんだけど。
「女の子」って、「可愛い」ってこうやって「作る」もので、本質的でもなんでもないよな~~笑、というのを乙女ゲームのシナリオが図らずも暴いてしまっているという。
もちろん、先に言っておくと、2010年代前半に発売されたこのゲームが”先進的”だとかそんな話をしたいんじゃない。むしろ、月宮先生は「恋をすれば綺麗になる」という使い古されたフレーズを繰り返すように、かなり保守的な人だと思うし、だからこそ後半の恋愛が盛り上がってくるところで「彼氏は男らしい方がいいよね」「男として」という言葉につながると思う。
このゲームは別に、何かを主張したりしてはいないし、なんなら「女性らしさ」に抗ってもいない。だからこそ、図らずも、暴いてしまっているところに面白さがあるし、私が恋愛エンドでボロボロ泣いてしまったのは、むしろそういう”抗ってない、だけど。”というところにある気がする。私の日々の生活は「抗えない」生活だから。
注目したいのは、ハルちゃんを「女の子らしく」「かわいく」する際に、月宮先生の「アイドル」としてのスキルが生きているところ。
つまり、「視線」の意識が生きているところ。
この点で、月宮林檎√は、「女の子が生きること」と「アイドルが生きること」そして「恋愛における視線」がクロスする!!!!!!
ここが本当に秀逸......!!!!!!
で、急に私の生活の話をさせてほしい。
私は、女として生きているし、日ごろの服装はお花やレースといった「フェミニン」な服装ではないが、スカートをはくし、ヒールやアクセサリー、長髪といった意味で常に「女性らしい」恰好をしている。
はっきり言って、半分くらいは「マナー」でやっている。
大人の女としてある程度のラインを保つべくやっていて、オタ活だとかで楽しいことがあるならそりゃあ嬉々として可愛い服を買いに走り、念入りにメイクをして丁寧に髪の毛を巻くしそういうことは楽しいこと極まりないけど、それは「ハレの日」の話であって、日常の大部分は正直「マナー」でやっている。
「自分らしさ」とか「可愛いを選ぶ」とか、そういう主体性がある日もあるけど、割合で言うと高くない。要するに、「生存戦略」として「可愛い/綺麗/清潔」をやっている。「マナー」の範囲内にいると、なぜ?と聞かれないし、小言も言われないし、戦わなくて済むから。この社会で女として「生きる」ための「作戦」としてやっている。
月宮林檎も、生存戦略としての「可愛い」をやっている。
彼は、別に「自己表現」で女装しているのではない。
中性的な顔立ちで、シャイニング早乙女にスカウトされて、シャイニング早乙女に言われたから女装アイドルをしている。
そして今の立ち位置を手に入れたのだから、彼にとっての「可愛い」は「仕事」であり「生存戦略」。
ただ単にアイドルとして生き残るという意味の「生存」だけでなく、女装する前は自信がなかった、暗かった、と話しているから、中性的で「男性らしさ」から外れたことへの不安を抱いていた彼にとって、自信を持って生きるための命がけの大ジャンプが「女装アイドル」なのだと思う。
それで自信をもって生きていけるから、プライベートでも女装をしていて、仕事という枠にとどまらない。そうやって生きる方が楽だったんだと思う。
だからこそ、ハルちゃんにメイクを教え、ドレスを与えて、「可愛く」するのは、「女性らしく」なりなさい、という「呪い」ではなく、「可愛い」という武器を使いこなして「生きろ」というエールに感じる。
同時に、好きな人のために「可愛く」するというワクワクは「可愛い」という呪いではなく魔法だ。
「可愛い」の下僕になるのではなく、「可愛い」と上手く付き合う方法を月宮先生は教えてくれる。
そしてこれはアイドルを職業としているからこその説得力だと思う。
今度はここでジャニー喜多川と視線の話をする。
ジャニー喜多川のエンタメが私は大好きなのだけど、その一因としてジャニーは女に興味がなかった、というのが挙げられる。
ジャニーは、自分の目の前にいる可愛い男の子たちを自分の世界観で演出するのが大好きで、(そりゃあ多少は気にしていただろうけど)究極のところは観客の女性ファンを無視するような芸術家肌だったと思う。
だからこそジャニーのエンタメはトンチキでずば抜けていて、悪趣味で、面白かった。
女は、「見られる」ことが多い。(見た目関係の「マナー」が多い。)
容姿だけじゃなくて、例えば「男性アイドルのファンはこういうのが好きでしょ」と言わんばかりに観客を舐め腐った演出の舞台に推しが出ていたりすると、アイドル産業そのものとアイドルのファンは舐められたものだなという怒りで一杯になる。
「観客として意識されたファン」が舐められた形で「見られて」いるとき、女オタクを「見ない」ジャニー喜多川のエンタメはおもろかったナ...と思う。
何より、ジャニー喜多川に関わらず、個別のアイドルは直接にオタクを「見ない」。
どんな容姿であっても「みんなの笑顔、すっごくかわいい!」が正解なのだ。
接触・認知を目的としないレベルで男性アイドルのファンでいることは、「見られない」体験。
さらに言うと、男性アイドルのファンでいることは、お金を払って「見る」側に回ることができるチャンスだ。
今なら職場で男性から女性にかけたらアウトな言葉を、「太ももがセクシーだな」「雄っぱい...」などなどをSNSにつぶやくこともある。美しい彼らを存分に「見る」ことができる。
だからこそ、男性アイドルの女性ファンって、結局は「見られない」喜びを、そして「見る」快楽を楽しんでいるんじゃないか.......と思っていた。
日常での「見られる」経験の苦しさから逃げるために、お金で「見る」喜びを買う。それがアイドルオタクなんじゃないか.......と。
(そしてそれは、見られる苦しさを好きなアイドルに負わせているようで、止まらない連鎖にどうしていいのか途方に暮れてしまっていた。)
でも、それだけじゃない!!!
この悩みを、月宮林檎√は解決してくれた!!!
少なくとも私にとって、アイドルのファンでいる喜びは、「見る」側に回る喜びに尽きない。
むしろ、アイドル自身が「視線」をうまく乗りこなして、「見られる」に留まらない存在へと踏み出して生きていく姿に、力をもらっている。
恋愛エンドでは、AMAZING LOVEのステージを終えての感想で、シャイニング早乙女はこう言う。
「よい曲を作り、よい歌を歌うだけではなく、観客に夢を与え、希望を与え、明日への活力となるステージを作り上げたみせた。」
アイドルがくれる「明日への活力」、それは常に「視線」にさらされる人たちが、「視線」を乗りこなし、時には「視線」にやられて負けてしまいそうになりながら、ただただ「見られる」側に留まらない、むしろこちらの「視線を独り占め」してしまうような、そういう「仕事」に、「生存戦略」に、力をもらっている。
アイドルに惹かれるのは、見る/見られるの戦いの中で、力強く生きていく姿がカッコイイからなんだなぁ。
女性アイドル、男性アイドル問わずに、アイドルには「視線」をやりくりする強さがあって、それはもちろん仕方なくやってることなんだけど、やっぱりその強さはカッコイイ。
「見られる」ことの多い女LIFEにおいて、これは「明日への活力」になるのかも。
まぁ人によると思うけど、少なくとも私とっては、そっか~~~~~アイドルのくれる力って、こういうものだったのか~~~~と私の中でめちゃくちゃ腑に落ちた。
「視線」の月宮林檎√で、私のアイドル理解がスーパー深まりました、林檎先生ありがとう~~~!!!!
この「視線」が恋愛にも生きている!!!
プレイ前は、最後はどうせ「本当の俺を見せられるのはきみだけだ」というオチでしょ~?と思っていた。
ところが、この月宮林檎√、予想していたほど「本当の俺」とか「真の」とか言わない。意外すぎる。(多分、大恋愛エンドの「本当の俺は案外わがままなんだ。好きな人には甘えたいし、独占したい。」くらいでは?)
さらに「自分らしさ」とか「個性」も押さない。こんな個性的な活動をしているアイドルなのに!?というのが第一印象だった。
それこそが、月宮林檎なのだと気づいたときに、私はボロボロ泣いていた。
「本当」も「嘘」もない。女装も、男装も、みーんなまとめて「月宮林檎」。
しかも「女装」は「自分らしさ」や「自己表現」ではない。
あくまでも「仕事」であり、生きるための工夫でありつつ、そこで「演じる(=パフォーマンスする)」ことの積み重ねは、常に現実を作り続けていて、自分の一部になっている。
今ではもう、それがキャラクターなのか素なのかわからないくらい、自分の中に定着してしまったのだそうです。
とハルちゃんのモノローグを通じて、林檎さんの曖昧なあり方が描写される。
「自分らしく」誇らしいとか、そういう言葉ではなく、月宮林檎が、一つ一つ試行錯誤して、自信を持って生きていくための淡々とした戦略が、今の月宮林檎であって、それ以上でもそれ以下でもない。
ああ、かっこいいな。
何より、ハルちゃんもそれを理解しているのが、本当に素敵で、林春~~~~~~~~~~!!!!!と最初はアカハラじゃん...と思っていた私が盛り上がってしまった。
林檎先生が、「やっぱり彼氏は男らしい方がいいよね?」と言うと、そういう意味ではなくて”先生のいろんな面が見たいという意味だった”と説明する。
本当も嘘もない。人は、多かれ少なかれ、「うまく生きていく」ために何かを演じている面があって、演じていたはずが、それがいつのまにか自分になって、いろんな面を持つ。
「先生の見せたい姿でいてくれるのが一番です。」
「そうだね、君に見せたい姿...見てほしい姿でデートをしよう。」
嘘とか本当とかじゃない。「見せたい姿」でいたらそれでいい、という話にまとまるところが、「視覚/視線」がテーマの林檎√らしく、かつ、月宮林檎という人のかっこよさをハルちゃんがしっかり理解しているように思えてグッときました....。
本当の自分ではなく、「男としての一面」を全部あげる、という告白も、林檎先生らしいな~~~と思いました。
大恋愛エンドでも、「この姿の時は君だけの俺でいたい。」と言うし、ハルちゃんが買ってあげたワンピースを着ていることを喜ぶ。
それは、「お互いのための『姿』」があるということで、特別で贅沢なこと。
女装をしているときも、仕事の顔も、何もかも、嘘じゃなくて、本当なんだけど、でも「好きな人専用」の顔があるという贅沢。
それを二人で分かち合うのが、林春なんだ~~~!!!!!!くう~~!!
いや、ほんと秀逸だな.......。
「君の...恋する瞳に恋したんだ。そして、その視線の先にはいつも俺がいた。違う?違わないよね。」(恋愛エンド)
なんて「視線」を鍵にずっと進んできた物語のエンディングとしてあまりに秀逸でのけぞってしまいました.......。
友情エンドでは、フルタイムの女装をやめると社長に言うし、大恋愛エンドでもフルタイムの女装はやめる、ということが示されている。
林檎さんにとって、「女装」は自身を持って生きていくための生存戦略だったけれど、ハルちゃんという人と出会って、また一つ強くなって、そうじゃない姿でも生きてみるという勇気を手にする。
カッコイイな........。
月宮林檎のファンクラブめっちゃ入りて~~~~!
最後に!!
アイドルって先生でもあり、恋人でもあったな、という話。
Chapter4のAMAZING LOVEを仕上げていく段階でハルちゃんが月宮先生のことを
歌や曲の技術だけじゃなくて、どうやって問題に向き合うのか、越えていくのか。そして自分を信じるのか。そういうことを教えてくれている。
これで、あ~~確かにアイドルって先生でもあったな、というのを思い出した。
なんというか、アイドルは生き様を魅せているところがあるから、その姿を見て、学生時代の私は、どうやって自分を信じ、努力し、夢を描くのかを学んだ。
他にも、アイドルが出てるからスポーツ番組を見て、スポーツの魅力を知ったり...彼らを通じて初めて知った感情や感動、世界があって、その意味でもアイドルは常に「先生」だった。
その背中が、いろんなことを教えてくれた。
早乙女学園の現役アイドルが「先生」という制度は、そういう二重の意味での「先生」性を持っているのかもしれないな...と。
だからこそ、林檎先生自身ではなく、早乙女学園の教え子であるAクラの3人がAMAZING LOVEを披露することで、後輩たちはまた「学び」「力を得る」。
Aクラ3人もまた、もうすでに、アイドルとして「先生」性を身に着けているから。
先生との恋愛??と思ったけれど、アイドルであることを踏まえれば、アイドルはいつもいつも私の人生にとって「先生」であり「恋人」であった。
生き方を教えてくれたし、自信を持つことを教えてくれた「先生」だったし、教えるだけじゃなく、その歌声で一緒に生きてくれて、癒してくれて、励ましてくれる「恋人」だった。
何より、殊更、月宮林檎というアイドルは、「自分らしさ」じゃなくてもいいから生きるために「可愛い」という武器を取れ!と教えてくれるんだよね。
「可愛い」は彼がシャイニング早乙女によって押し付けられたように、決して選択できるものではないし、見られることそのものは自由度を許容しない。だけど、そこでただ従順になるのではなく、時に大胆に(友情エンドでシャイニング早乙女に正面から反旗を翻すAクラ担任っぷりのように)、あるいは自分自身すらも「どこまで演技だっけ...?
」とだますように、生きていく。
「女の子」というパロディを自己解釈して生き続ける中で、すべての経験が、これからの未来を生き抜いていく力になる。
月宮林檎は、そんなアイドルで、そんな先生で、そんな恋人。
ということで、林檎√は「アイドル好き」「アイドルに力をもらってる」という感情の解像度を爆上げしてくれたし、何より月宮林檎の生き様がシンプルにぶっ刺さって、月宮林檎というアイドルであり男であり先生であり、の一体となった生き方がかっこよくって!!
は~~~~~月宮林檎のソロ曲はよ~~~~~~~~~~~!!!で頭がいっぱいです。
こんな風にゲームはうたプリワールドの解像度を爆上げしてくれますね。
たまんねぇ~~~~~~!!!!!!!