LOVE!LIFE!ENJOY!

好きなものなんでも書く場所になってます

ASカミュ√感想(後編)

 

ASカミュ√感想後半戦です。

 

こちらは、やや政治的(?)な内容を含みます。

また「アイドル」についての個人的な見解及び「アイドル史」への個人的見解モリモリですので(さらにジャニーズ事務所の話もしますので)、ご了承の上、読むよ~って人はどうぞ!

 

なお感想前半戦カミュ春良すぎだよ~~はこちら。

 

lovelifeenjoooooy.hatenablog.com

 

 

 

 

以下、その続きの後半であるカミュ√の政治外交劇としての、というかカミュさんの「自由」と「恋」についての感想です。

 

 

 

 

=======

・チョコレートとアイドルと平和の話

 

 

 

そんな恋愛エンドに至る前、カミュ√終盤はほとんど政治外交劇で進んでいく。外交で大活躍するのは「王子=執政者」たる愛島セシルさんの大活躍である。

 

 

何よりDebutセシル√で明かされた「白い悪魔」伝説のアグナパレスとシルクパレスの因縁だけでもびっくりだったのに、カミュ√では両国王族の婚姻と、それを仕組んだ派閥は一体どこか?という内政と外交が入り混じり、その重要人物がなぜかシャイニング事務所でアイドルをやっているので、両国の政治が日本で進んでいくという政治劇に。クーデターまで起きてしまい、シルクパレスの政情不安~~~~~!!!!

 

そんな中で、セシルさんも婚姻の当事者として、そして一国の王子としてカミュを手助けする。

シルファンの人は、絶対にカミュ√をやるべき!と間違いなく言えるのは、ゲーム軸セシルさんらしさ大爆発、つまり王族としての誇りと素質が溢れまくる....!実際カミュさんも

「だが、お前が案ずるほど愛島は弱い男ではない。あれは真に王の器だ。争うようなことになれば、最終的に勝利するのは愛島の方だろう。」

 

と、いつも喧嘩してばかりだけど、セシルさんの王族としての素質を認めているところが本当にいい...。

女王の見舞いと称して、セシルさんご一行についてカミュさんがシルクパレスに入国する場面で「国益を損ねる訳にはいかないから、カミュが見つかった場合は容赦なく切り捨てて知らなかったことにする」と告げるセシルさんの「王」っぷりに、ゲーム軸セシルさんが大好きな身としては大変興奮しました。

 

そして、カミュさんもシルクパレスという国独特の地政学に左右されながら、その仕事を遂行する。地理と政治は密接に結びつくとはよく言うものだけど、シルクパレスの気候とその産業、そしてその統治形態(女王独裁型)が緊密に結びついている様子が、端々から見て取れる。

カミュさんは、孤独な女王のため、国のため、それが当然のことのように(考えるまでもなく)任務のためであれば、「なんでもする」。

まさしく独裁国家の「臣民」である。

(もっとも女王の絶対的権力が揺らぎ、次なる政治形態への移行:混合政体とか貴族制とか?に移行しようとする者がいるので、起きたクーデターですが。)

 

 

このカミュさんの背景は、言ってしまえば「うたプリ」独特のファンタジー、に過ぎないのかもしれない。セシル√にも、マジカルな要素があり、セシルと切り離せない存在であるがゆえのもの、なのかもしれない。

 

しかし私は、そうした単なる舞台装置である以上に、カミュさんの抱える背景は、「日本のアイドル」という存在を浮かび上がらせる重大な要素であると思う。

 

 

 

 

 

さて、急にここで戦争と平和と自由とアイドルの話をする。

しかも、旧Jオタ特有の(?)個人的なアイドル論やアイドル史への見解を含むものなので、本当に大丈夫な人だけで。

 

 

 

 

 

カミュ√を通じて感じたことは、「アイドルは、平和の象徴だ」ということだ。「平和」と、なにより「自由」の象徴だ。

 

 

 

カミュさんは、「女王陛下の剣となる」ことを胸に生きてきた。

 

俺はただの剣だ。自由を持たぬ陛下のために働く。

 

「剣」はかなり象徴的な言葉で、文脈によりその内容は変わる。

文字通りならば女王の軍隊の一員として、戦う立場ということだろう。

スパイとして誰かを偽り、他人を利用するという「悪事」もまたそうだろう。

なんにせよ、手段は問わない、ということで、場合によっては人を殺めることもあるのだろう。「暗殺」が飛び交うような政情なのだから。

「ひとりで自由になったりはしない。仮に悪事を働けと命令されたなら、誰を傷つけようと完璧な悪党を演じてみせる。」

と春歌ちゃんは理解する。

 

 

 

つまり、カミュさんの手は、マイクではなく、剣を、武器を取るための手だった。

もしかしたら、カミュさん自身の手ですらなかったかもしれない。

女王陛下の「手」なのかもしれない。

 

 

 

 

私は、それを20歳、ようやく子供でなくなったような歳の人が言っていると思うと胸が苦しい。

私は、どんな子供も、どんな人も、人を殺すために武器を取って欲しくないと思う。

どんな子供も、「自分の感情がない」なんて言わないで欲しい。自分の夢を描き、自分の夢を追って欲しい。他の誰でもない「自分の人生」を、愛し愛され、夢を追い、自分のために生きて欲しい。

どんな人間も、誰かの道具ではない。

 

カミュさんは「愚民め」と馬鹿にするだろうか。笑うだろうか。

というか、「日本目線」の押し付けだろうか。

 

 

もしそうだとしても、アイドルとはそういう願いが込められていると私は思う。

アイドルは「自由」の象徴で、自由に「夢」を追う男の子そのものだ。

 

 

 

日本のアイドルの歴史を語るなら欠かせないジャニーズ事務所は、占領アメリカ軍の暮らしていた東京代々木のワシントンハイツから始まった。

 

ワシントンハイツの中のグラウンドでプレイする野球チームから始まった。

 

野球は、当時アメリカの象徴で、自由や民主主義の象徴でもあったらしい。(参照、『「未熟さ」の系譜―宝塚からジャニーズまで』(新潮選書、周東美材))

ジャニーという進駐軍の軍属として朝鮮戦争にも関わった男は、米軍のチョコレートなんか配ったりしつつ、(オフリミットの金網を越えるのを手伝い、)近所の子供に野球を教えた。チョコレートも配った。

 

そして、雨で野球ができない日に、WEST SIDE STORYを見に行った少年たちはいたく感動して、あんなエンターテイメントをやってみたい!という子供の無邪気な夢に「それいいじゃん!」と乗っかって始まってゆく――。

(BGMは「悲しき雨音」)

(私はA.B.C-Z主演「ジャニーズ伝説」というこの話をミュージカル化した舞台を日生劇場や帝劇に通い詰めた経験を持つので、この辺の話を、あくまでも史実ではなく『物語』として空でスラスラと話すことができる。)

 

 

詳細を省いて、いささか寓話のようにこの始まりを捉えるなら(史実がかなりギルティであったことは、「ワシントンハイツ」であったこと、及び昨年の報道で周知の通りだろう)、アイドルは、戦争が終わり、チョコレートの匂いとともに、自由を夢見る男の子たちから生まれた。

 

つまり、「戦後」の、政治形態で言えば、大日本帝国憲法天皇主権から、日本国憲法国民主権へと主権の転換がなされた時期にアイドルは芽生える。

(なんだか公民の授業みたいですね笑)

 

 

だから、アイドルには、平和と、自由と、そして甘いものが欠かせない。

な~~~~んてね!

 

でも実際、初代ジャニーズの面々は、1946年~1947年生まれの方で、ポスト1945の男の子なんだ。

 

 

そして今も、日本では男の子たちは、剣でも銃でもなく、マイクを握り歌い踊ることができる。

徴兵制もなく(隣国のアイドルとの大きな事情の違いだろう)、年齢を重ねても、中断なくアイドルでい続けることができる。

 

 

単に武器を取らなくてよいことが、「平和」の効能ではない。

陛下のために、戦わなければならないのなら、心の自由も許されないだろう。

自由のための大前提は、内政も外政も穏やかなことだ。

平和は、「自由」の条件だ。

 

 

陛下のためなんかじゃなく、自分の夢のために歌いたい!踊りたい!という男の子はダメなんだろう。大好きなアイドルを追いかけるのに夢中で、国のために子供を産んだり育てたり兵器を創ったりしたくない!という女の子もダメなんだろう。

自分の感情ではなく、国のため、元首のため、、、、。

 

 

 

カミュ√を、こうやって読み解くのは、いささか私の願望が前に出過ぎているかもしれない。

例えばメモリアル「シルクパレスからの通信」は、春歌ちゃんへの気持ちを確かめるメモリアルで、恋心が解放される瞬間そのものである。だから、政治の話ではなく、恋の話。

 

だけれども、そもそもカミュさんに感情がなかった(感情を抑えていた)のは、なぜ?
そうだと決められた運命に、何も考える必要がないと、そういう社会で育ってきたからだろう。

「歌謡祭で歌っている間 俺は......楽しいと思った。

 ありえん話だ。陛下のためにのみ生きると誓い、俺個人の喜びなど、この世に存在せんと思ってきたというのに」

 

 

それが、日本へと行き、七海春歌と出逢い、心が動く。そして、自らの感情を知る。誰かと共にいたいと願うこと、あるいは誰かと夢を重ねたいと願うこと。

 

「春歌。もう一度礼を言おう。お前は、俺をもまた救ってくれた」

 

女王が光男と出逢い、知った「感情」は、「自由」と切り離せないもので、だからこそ「自由」を得られないと知っている女王は、氷漬けになったまま呪いが解けるのを拒んでいた。

その氷を解かす魔法は、春歌ちゃんの音楽で、その音楽は「自由」で「夢」で「恋」だった。

 

「お前の曲は、自由だな。」

 

「俺が自由でないのは承知している。この世に生を受けたときから、鎖でつながれているようなものだからな。俺も......陛下も」

 

「春歌。お前は自由でいろ。自由にのびやかに、音楽を紡げ。そのための翼を、俺がくれてやる。」

 

 

カミュさんは「ひとりで自由になったりしない」。

国や政治のせいではなく、「自分で選んだ」という人だろう。

 

しかし、個人の認識とは別の問題として、国のかたち、国の政治というのは、人の人生を決定づける側面がある。その意味で、カミュさんは、日本の国の政治形態とは異なる政治形態の社会から来た異国の人だ。だからこそ、この日本を前提にしたうたプリワールドの中で、「自由」と「アイドル」の意味を浮かび上がらせる。(そして、うたプリ独自の計算式に当てはめるなら、「恋」=「アイドル」。)

そんなシナリオが、カミュ√、と言えはしないだろうか。

 

 

 

 

もしも日本のアイドル史から何か教訓を得ることが許されるのならば、自由な男の子と女の子がいないと、アイドルは成り立たない。そういうスタートだったはずだ。

パンとサーカスのための、国民を統率する手段としてのエンタメになってはいけない。

 

夢を自由に追いかける「男の子」と、生殖のための異性なんかじゃなく、私自身の欲望と憧れのために熱狂する「女の子」と。

 

 

 

たぶん、だからジャニーズの内部舞台は唐突に特攻隊の場面が差し込まれて「平和大事~~!!」みたいな急にどうした!!??っていう仕様になって帝劇に脚を運んだオタクをポカンとさせるというトンチキ仕様になっていた。

(最近行ってないけど、今もジャニワ/ジャニアイ系帝劇舞台ってそうなんだろうか?あの人が死んで、あの人の名前がなくなって、そういう演出もなくなってしまったのかな。)

 

 

カミュ春の恋模様が本当に美しくて大好きであると同時に、「アイドル」が好きな人間としては、ここに来て「自由」がキーワードになっていることに一つ胸を熱くしてしました。

カミュ√は、「自由」の条件としての「平和」と、「自由」があってこその「アイドル」を暗示するようなルートだから。

 

そしてそれが、きちんと乙女ゲームとして「恋」と交わっている。

 

「もしもこの身が自由であれば、愛する者が出来たとき、この腕に抱くことが出来たのだろうかと思えば......口惜しいな。」

 

その恋は、「夢」と「自由」を纏ったあなた自身を想って作った曲によって叶う。

 

あなたの「感情」、あなたの「恋」、あなたの「名前」。

日本で、「アイドル」としてカミュさんが活動しながら、春歌ちゃんと出会って得るものたち。

 

 

 

 

さて、カミュさんは、日本に来て、そんな「アイドル」になり、甘いものをたくさん食べて、何を想ったのだろう?

剣だけではなく、マイクを握り、何を想ったのだろう?

「平和ボケ」した「愚民」め!と思っただろうか。

 

 

まぁ、確かにそうだろう。

そもそもワシントンハイツから始まっている時点で、9条と日米安保の矛盾を予言し、そのまま抱え込んだ日本の外交史の矛盾をそのまま抱え込んだみたいなエンターテイメントがアイドルだからさ(暴論)あっはっは~~!(細かい論点とツッコみをこの笑いで吹き飛ばす)(ね~!!)

そして、現代日本がほんとうに「自由」なのか、とか、シルクパレスの政情不安を横目で見ているなんて、とかいう話もぜ~~~んぶ置いておきましょう!!!はい!!

いい加減な個人のブログなので!!

それに細かい話は、ここでカミュ√と重ねて書く必要はないでしょうし。

 

 

 

 

でも、それでも、「アイドル」を、特定の会社と個人から切り離しながら(重要)、寓話として、文化として捉えるなら、やっぱりそれは平和と愛と夢見る男の子のものだ。

 

 

これだけ矛盾だらけで痛みに彩られた歴史ではあるけれど、この文化がそれでも悪くないと思ってもらえたのなら、私は日本の人として嬉しい。

 

 

たくさんの甘いものと、剣ではなく、マイクを持つこと。

だれかのためじゃなく、自分のために生きること。

 

それが、日本という国が生み出した「アイドル」というジャンルです。なんの権威でもないけれど、私はそう思っている。

 

春歌ちゃんが、この場所で夢を叶えたいと願ったのも、「お前の曲は自由だな」と言った曲が生まれたのも、きっとそれが「アイドルの曲」だから。

 

 

乙女ゲーム×アイドル×音楽=「うたプリ」だからこそ、これまで「夢」(そしてその前提としての「夢みる自由」)と「歌」は、「恋」と「愛」をドライブする最高のエネルギーだった。

どの√だって、その要素をそれぞれ違う形で表現し、彼と彼女の「人生」を描いてきた。

 

 

しかし、ここに来てカミュ√は、「歌」に熱もなく「仕事」であり、アイドルは「夢」ではなく「仕事」である。その”絶対零度”の背景には、シルクパレスという国の政情と文化によってあらかじめ封じられた「自由」があった。

その”絶対零度”を「恋」によって溶かす過程が「乙女ゲーム」としての素晴らしいシナリオなら、その「恋」によって解放された熱であるところの「夢」が、そして「自由」への僅かな願いが、「アイドル」を「アイドル」たらしめるカミュ√の魅力だと思う。

 

 

そんな素敵なカミュ√に出会えて、私は本当に幸せです。

 

 

 

 

 

 

そして、少し飛躍するけれど、カミュさんだけじゃなく、世界中の男の子が、その手に武器ではなく、ペンやマイクを握れたらいいのに、と願わずにはいられません。

誰だって愛し愛され、夢を見て、恋をする自由と希望がある。

 

 

そう思いませんか、カミュさん。

私は紅茶を飲みながら、国内外のニュースを見るにつけ、そう思っているのです。

だって、私はあなたのような素敵なアイドルに今までもこれからも出会い続けたいから。

 

素敵な「アイドル」と「歌」は、雪が溶け、自由な風が吹く場所に咲くものだから。