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「人形」としてのうたの☆プリンスさまっ♪

 

 

スーパーおもろい本を読んだ。

菊地浩平「 人形メディア学講義 」

 

 

いつもは乙女ゲームたる「うたのプリンスさまっ♪」(通称うたプリ)の各ルートの感想やその他うたプリ現場の感想を書いているブログなのだが、おもしろい本を読んだので、その本の感想をうたプリと絡めて書かせて欲しい。というかめっちゃ書きたいから書く。

 

なお、先に断りを入れておくと私は昨年9月の映画「マジLOVEスターリッシュツアーズ」からうたプリのファンになったいわゆる「スタツア新規」であり、さらに言うと文学部出身でもなく演劇論や批評についての学術的訓練をいわゆる「ぱんきょー」レベルですら受講したことがない。

つまり、分析対象であるうたプリそのものについても、分析道具である人形論についてもスーパード素人である。

だけど、おもろい本を読み、世界がぐるんっと広がったからには何か感想を書きたい!ブログだったら許されるよね!レポートじゃないし!っていうゆる~い感じで書いている。しかもレポートだったら許されないけどうたプリオタクのブログなので、結論は「うたプリ最高~!」と決まっている。

 

なので、まぁいろいろ許して欲しいし、むしろ私より詳しい人が「うたのプリンスさまっ♪」でもっといろんなことを書いてくれ~の気持ちを込めている......。

うたプリで卒論書いたよ~って先輩ファンは山ほどいそうな気配がするので、あなたの卒論を教えてください...!修論でも博論でもいいんですけど笑 お題箱はいつでも開いてます!!

 

なお、「人形」と絡めて書くので当然にプリンス達を「うたの☆プリンスさまっ♪という作品のキャラクター」として扱って記述している箇所が多々ありますので、気になる方はお気を付けを。

でも、「プリンスが実在してる」っていう話をしているつもりです。

 

 

 

【前置きここまで】

 

 

≪目次≫

①なぜ「人形メディア学講義」を購入したか?

②二重の「人形」性を帯びた「うたプリ」―1.アイドル

③二重の「人形」性を帯びた「うたプリ」―2.3DCGと「着ぐるみ」「中の人」

④おわりに―待ってて、「美風藍」論

 

 

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①なぜ「人形メディア学講義」を購入したか?

 

答え:ぬいぐるみ(ぬいスター)を手に入れたから。

 

 

4月末、ようやくぬいスの真斗くんと音也くんをお迎えした。

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やばい。可愛い。可愛すぎる。ずっと写真を撮っていたい....!!!!!

 

 

そもそも、今やうたプリオタクの必携品ともなりつつある(?)うたプリのアイドル達をかたどったぬいぐるみのぬいスター(通称ぬいス)、昨年9月にファンになったとはいえ、11月には受注販売があったのにも関わらず今年4月までぬいぐるみの入手が遅れたのかといえば、シンプルに「ぬいぐるみいらねーだろ」と思っていたタイプの人間だったから。もふもふしたものに「可愛さ」を見出せなかった。

しかも、元々ジャニオタで、アクリルスタンド文化には理解があるものの、ぬい文化には慣れていないグループのオタクをやってきた故、うたプリオタクがぬいぐるみ遊びに興じていることに最初は戸惑った。ぬいスでもプリンスキャット(猫のぬいぐるみ)でも、なんでみんなそんなに持っているんだ...!!!????

どういうこと??????

 

 

しかし、フォロワーさんたちとの交流でお会いすると必ずぬいスを連れているし、他の家の子とは言え、ぬいスを抱っこさせてもらうととてもかわいい。さらに言うと、自分を映らずして集合写真を撮れるので、オタク同士のコミュニケーションにはもはや必須のもののように感じられた。いつも遊んでいるのが、音也担と翔担が多いのだが、二人とお会いしても写真に残るのは音也くんと翔くんだけで、なんだか寂しい。私の担当の真斗くんもここに連れていきたい!と思った。聖川担とお会いしたときも「ぬい、ゲットしました?」と聞かれてしまった。ならば、欲しい!!私もみんな持ってるの欲しい!!!(小学生の感情)

 

 

 

そう、当初は戸惑っていたのに、完全に「うたプリ文化圏」に取り込まれ、いつしか私もぬいが欲しくなっていた...!!

 

 

ということで、買った。

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そして手に入れるとそれはそれはもう可愛くて仕方がないので、ゴールデンウィークは彼らの服を作って写真を撮っていた。

 

と、同時にむか~~し書店で見かけた「人形メディア学講義」という本を思い出した。当時はゴリゴリのジャニオタで、ぬい撮りなどはしていなかったので、へ~...とは思ったものの、特に琴線に触れなかったが、今はピン!と来た。

「メディア」とはつまり「媒介」...、ぬいぐるみ(=人形)を媒介としてコミュニケーションを取っているように見えるうたプリオタク文化についての理解を深めるにはもってこいなのでは!!??とタイトルから勝手に想像してアマゾンでぽちった。

(※実際の本の中ではもっと広い「メディア」の意味です)

 

ということで、読み始めたのだが......

 

 

 

想像を超える「人形論」の世界が広がっていた!!!!!!

この本、ぬいぐるみを通じたオタク同士の交流なんてレベルではなく、今年私が初参戦して度肝を抜かれ「そ....存在してる.....」と涙を流したShining Star Stageたる3DCGライブ、あるいはそもそもの沼落ちの原因たる「うたのプリンスさまっ♪マジLOVEスターリッシュツアーズ」という全編3DCGアニメーションのライブ、ひいては「うたのプリンスさまっ♪」というコンテンツそのもの、というか私の古巣であるジャニーズつまりアイドル論全般までも射程に捉えた幅の広い議論だった!!!!!!!!!(衝撃の大声)

 

 

ぬいス買ってよかった!!!!!

ってか、ジャニオタ時代に読みたかった!!!!この本!!!!教えろよ、私の友達!!!!!!おい!!!!(他力本願)

 

 

ということで、以下は同書を読んで、私が考えたことである。

 

 

 

 

 

②二重の「人形」性を帯びた「うたプリ」―1.アイドル

 

この本を読んで私が確信したのは、

うたプリ」が二重に「人形」性を帯びていることがこのコンテンツの最強最高たる理由の一つだということ。

 

 

二重に帯びているので、二つのレイヤーに分けてそう考えるに至った理由を説明する。一つ目のレイヤーは、「うたの☆プリンスさまっ♪」が男性アイドルたちをメインとするコンテンツであること、つまり「アイドル=人形」という意味での「人形」性を帯びている。

 

個人的にジャニオタだったこともあり「アイドル=人形」には天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたが、そのひっくり返りが快感であるほどに納得感がえぐかった。

あ~~~~~~~~~~!!!!!!!!(納得)と叫びたかった。

 

本を読んでいない人でも「アイドル=人形」と言われたら、「なるほど、プロデューサーや会社の”操り人形”という意味ね」くらいは想像するだろうが、この本で言われている「人形」はそこに留まらない。

 

むしろ、アイドルを応援する喜びは、「操作不可能性」に由来する賭博感や、人形の中身であるその人自身の公にしていない部分(プライベートやアイドルになる前の人生、公言していない信念etc.)が「透ける」瞬間にある。

また、アイドルのコンサートの快楽は、予定調和で完璧なパフォーマンスを見に来たのではなく、コール&レスポンスetc.の渦の中で彼らと「共犯関係」になって彼らを「アイドル」へとすることにもある。(それだけじゃないけど)

「アイドル」として存在しているのではなく、私たちが目の前の男の子を「アイドル」にすることでしか生まれないグルーブを楽しんでいる。

(公の場所でやたらと着崩したシャツを着た男が指をちゅぱちゅぱしゃぶってこちらにその指を向けてきたら通常はドン引きであるが、それを「セクシーな行為」として解釈し「ハアアン...」「キャーーーーッ」と腰抜けになった声を挙げてこそ、あの空間は楽しい。)

 

というのが本を読んでの感想なのだけど本を読んでいない人には伝わらない物言いなので、本の内容と絡めて説明する。

 

・不自然なほどの美しさ

同書の中で直接にアイドルに言及しているのは、p.157でプロレスラーのササダンゴ氏と著者の菊池先生の対談の中。

ササダンゴ:割と人形的な部分がありますよね。容姿の良さも含めて。

菊池:毛穴が見えないですよね。

 

まず、容姿の良さが人形的な点でアイドルは人形的である。

また、プライベートが見えない(「性の匂いがしない」)ことをして菊池「人間と人形の間を揺れ動いているんですね。」とコメントしている。

 

事務所の管理に加えて、容姿の美しさが「人形」的だというのはわかりやすい。

むしろ、人形論がアイドル論にパワーを振るうのはここから。

 

 

・「操作不可能性」について

同書内の演劇研究者の言葉を孫引き(大学生はやっちゃダメだよ!)すると「人形には客体、モノとしての側面と主体としての二つの側面があると指摘する。そして操られるモノでありながら、観客からは生命があるようにも見えるという『揺らぎ』(oscillation)を人形が持つ『二重視』(double-vision)と呼んだ。」

 

人形劇にはこうした「揺らぎ」をあまり見せずとことん「まるで生きているかのよう」に見せるものもあるが、筆者は隠しようのない操作の中で「揺らぎ」を示し、むしろ観客にその振り幅を「二重視」させる作品に魅力を感じている。

 

同書内で「『スルタンの象と少女』の観客たちは、少女が人形であることを自覚しながら、遣い手の操作に反発するような仕草やその視線に愛おしさを覚えずにはいられなかったのだろう」と筆者はある人形作品を紹介するが、まさにアイドルだろ!ここ!と思った。

 

アイドルは事務所の管理に置かれているし、顧客であるファンの視線という厳しい管理にも置かれているし、自分自身をアイドルという「人形」として厳しい視線で律している者もいる。でも、それだけじゃなく、むしろそういう操作に反発するようにふるまい、こちらに視線を返す。

時に事務所に歯向かい、時にファンの視線を逆にコントロールし支配して見せ、時に自身が課した「アイドル」の規律さえも破って動き出す。

 

「二重視」していて、「揺らぎ」がある。

 

 

・「着ぐるみ身体」の「透け」感について

アイドルのことを「着ぐるみ」みたいだと思ったことはないだろうか?私はある。

この手の話は、アイドルのスキャンダルが出たときにしばしばTwitterオタク学級会で出てくる。

つまり、「着ぐるみ」としてのアイドル=オンの姿を愛しているので、「中の人」たる本人のプライベートはどうでもいい、というかむしろわざわざ楽屋裏に入っていって頭の部分を外している瞬間を追い回して写真撮ってお金にしている週刊誌許せない!的な話。

ただし、この比喩を使うとオンの姿の時は全力でアイドルしてほしい!という話になるので、本人のにおわせとか、楽屋に戻る道すがら(まだファンの目があってもおかしくない場所)で写真が撮られたりすると「プロ意識が足りない」という話にもなる。

あるいは、真逆で「着ぐるみ」だなんて思ったことのない人は、「生身」なのだからこそ恋愛するのは当然なのでスキャンダル扱いするのがおかしい、とか逆に「恋愛しないことこそがプロ!」とかこれまた態度決定としては分かれる。

 

 

私は、スキャンダルはどうでもいいんですが、この比喩には正直どっちでもあるよな~と思っていたタイミングで出会ったのが、ふなっしーの「透け感」という話。

筆者は、ふなっしーガチャピンを対比させて、「中の人」との結びつきが強固でしばしば「中の人」を透かすふなっしーと、「中の人」が交代していろんなことに挑戦するガチャピンの対比を論じる。

着ぐるみには、人間と着ぐるみ双方の組み合わせによってしか生まれない『着ぐるみ身体』と呼ぶ他ないものが立ち現れており、その一つの見方が「透け感」なのだという。

 

なるほど!!私は「透け感」をアイドルに求めていた!!と納得した。

というのも、私自身は「嘘」がアイドルを輝かせるとは思わない。ステージ上でさえ完璧であれば「嘘」を演じきれるようなぬるいエンタメじゃないから、アイドルは面白い。かといって、過度なリアリティーショーも求めていない。

大事なのは、アイドルという着ぐるみを着てエンタメをする「中の人」の汗の匂いが「透ける」瞬間。ふと怒りが抑えきれないとか、そういう瞬間。

完全な「着ぐるみ」でも「生身」でもない、その「透け」こそアイドルの醍醐味ではないかと思う。別にパーフェクトじゃなくていい、でもあなたの「素顔」が知りたいわけでもない。そういうファン心理を「着ぐるみ身体」の「透け感」は説明する。

あと、純粋に見えそうで見えない感じって興奮するじゃん。それでしょ!!!!

 

 

さらに、3章の「着ぐるみ身体論」はゴジラについても掘り下げる。

ゴジラは有名な「着ぐるみ」だが、ゴジラの撮影は「中の人」を隠す志向と見せる志向が拮抗しており、それが人間の身体に依拠しながら、人形を恐ろしくどこかかわいらしくもある未知の怪獣に見せる手法となりえていたことを示す。

ゴジラは人形や着ぐるみだけれども、簡単に操作できるのではなく、その重さや操作の難しさから制作現場において「人間の手に負えない怪獣」であり、着ぐるみは着用して簡単に操作してしまえるものではないことが分かる。

つまり、常に「外」=人形は「中」=人間に服従しているわけではない。

 

「言い換えれば≪外≫=人形と≪中≫=人間の≪緊張関係≫」

 

アイドルという「外」は、常に「中の人」にとって操作可能なのではなく、むしろその「外」の重さが中の人の体調不良になったり、逆に「外」の姿のお陰で中の人自身の力が引き出されたりしている。

おそらく、アイドルを愛することはこの「緊張関係」を愛している。

コントロール不能な「外」との付き合い方に苦戦する様が「透けた」ときに、アイドルは輝く。

 

さらに、おそらく生身の普通の男の子ではなしえなかったパワーを「アイドル」という着ぐるみが引き出し、連れ出して行っている領域というのが確かにあるように見える。それは、まさしくゴジラのように人間の手に負えない「怪獣」、人知を超えた魔の領域をアイドルは体現する。

言ってる意味わからないかもしれないが、私はNetflixの嵐のドキュメンタリーを見た時、打ち合わせ中などところどころで嵐メンバーたちの眼が座ってて正直めっちゃ怖かった。アイドルの頂点を極め、エンタメに魅入られた人間は「怖い」のだが、それは「アイドル」という着ぐるみが連れて行った領域な気がする。

 

 

 

・「共犯関係」について

 

 

第一章ではトイ・ストーリー論が展開されているが、そのキーワードは「共犯関係」である。

つまり、人形が単なる「モノ」でありえないのはその人にとっての主観と強烈に結びつき、しかし同時に「モノ」でしかないことを踏まえた上で情緒的なつながりである「共犯関係」を結ぶことで人形と人間の相互的なかかわりが生まれる。(ということを1章は言いたいのかな、と思った。)

 

あるいは、5章「もてあます、人形へのその愛」では、ライナスの毛布のように幼児が特定のものに執着する対象を「移行対象」という概念で説明する。

そして、移行対象とは主観と客観が交差する中間領域に存在し、成人になっても許容されうる。ライナスの毛布は、主観と客観の中間領域に存在し、狂気と紙一重ながら、他人にその主観の認知を要求しなければ、大人になっても楽しめるものである。

また、プーさんとクリストファーの別れは、確かにぬいぐるみとの別れではあるが、主観においては「森の魔法の場所」に帰れば、もはやその存在がいなくとも、中間領域の中で遊ぶことができる。そういう成熟した関係に移行したのだ。

 

ふぅ....、難しいね!!

で、この話を踏まえると!!

 

アイドルは、しばしば「疑似恋愛」よばわりされるが、(それが恋愛感情かどうかを置いておくと)「疑似」が付くのは私たち(生身)と「アイドル」を隔てる距離を誰もが知っているからではないか。

「マナーを守る」とはつまり、トイ・ストーリーの「人間とオモチャ」の埋めがたい距離のような、彼らと私たちの距離を自覚したうえで、その距離を隔ててもなお人生の相棒であり、友人であり、恋人であり、家族でもある「アイドル」を愛しているそういう関係が、私はアイドルとファンの理想の関係のように思える。

 

また、仮にアイドルが「リア恋」の相手であったとして、それはその人の「主観」においてそうであり、それを他者に押し付けなければ「中間領域」の中で、リア恋をはぐくむことができる。これがいわゆる「リア恋だけど同担拒否じゃない」の説明だろう。

それは成熟した関係で、素敵なものである。

 

つまり、アイドルは「人形」なき「人形」みたいな愛され方をされているのであって、その意味でもアイドル=「人形」と考えて分析することは、それなりの理論的装置となりそう!!と言える。

 

 

 

 

と、いうことで、この意味で、アイドルは「人形」である。

AASSL月宮林檎√の感想でも書いたのだが、アイドルは視線を「受ける」そしてその大衆の欲望に飲み込まれてぐちゃぐちゃにされる存在であるように見えて、実はアイドルの方がこちらの視線をコントロールし、投げ返してくるような強さを持っているところが私のアイドルが大好きな理由。そして、それは同書の筆者が『スルタンの象と少女』で少女の目線に射抜かれた人々の興奮として言及しているものと重なるのではないかと私は推測する。

 

そして、うたの☆プリンスさまっ♪はアイドルコンテンツであるからしてそのような「人形」性を帯びている。

さらに、原作ゲームは彼らの恋愛を膨大な量知ることができる。アイドルにご法度なはずの恋愛(はたまた性欲)をこれでもか!と知ることができるのであって、まさにプリンス達は、プライベートを「透けて」見せている。

アニメ軸でも、本来ファンの知るはずのない事務所の戦略等々を私たちは見ているのであって彼らは「透けて」いる。

 

アイドルという着ぐるみ性をはらみつつ、リアルアイドルでは不可能なはずの初恋初体験仕事上の修羅場云々を次元を超えた「ファン」である私たちに見せることができるという点で、究極の「透け」を実現しており、その点が彼らの「アイドル」としての魅力を倍増させている。

 

また、夢女子として彼らに恋することも、あるいは腐女子として彼らの壁になることも、みんなみんな「中間領域」の中で彼らと特別な関係を結んでいると言えるだろう。たぶん!

 

ということで、アイドルとはいわば「人形」であり、「人形」の魅力をアイドルコンテンツである「うたの☆プリンスさまっ♪」は含んでいる。

 

 

 

③二重の「人形」性を帯びた「うたプリ」―2.「中の人」と3DCG

 

 

ここまでは「うたプリワールド」内在的(ストーリー内在的)な視点で、彼らが「アイドル」であることの「人形」性に触れてきた。

二重の「人形」性というとき、二つ目のレイヤーはもう少しメタ的な、つまりプリンス達が実際は二次元キャラクターであるという元も子もない話について。

 

むしろ、ジャニオタだった私があえて「うたプリ」にこだわるのは、ここからが本番である!!!

 

 

 

・「中の人」としての声優さん

 

前半の「着ぐるみ」の話でお気づきの人もいるだろうが、うたプリ文化圏では声優さんのことを「中の人」と呼ぶ。もしかしたらアニメ文化全般でそうなのかもしれない。○○(キャラ名)の声帯が~~さん、という用語法もある気がするので、声帯に限る場合もあるようだけど、この辺の使い分けはアニメ文化に明るくない私にはわからない。

ただ、うたプリに関していえば7人組アイドルグループST☆RISHの声優さん7人のことを「中の人ーリッシュ」と呼んだりしていて、「中の人」感が強い。

 

おそらく、「中の人」呼びの傾向があるのは、プリンス達(あえて言えばキャラクター達)は「中の人と掠るように作られている」のが公式であることに由来する。

有名かつ象徴的な所でいうと、一ノ瀬トキヤの誕生日が8月6日で、中の人の宮野真守の誕生日が6月8日とか。

クールな雰囲気の聖川真斗が、ほんのり...というかかなり面白要素が加わっているのは中の人が鈴村健一さんという陽気な関西弁のおじさんであることと無関係ではないだろう。

 

そう、メタ的な意味でもうたプリは「中の人」が透けている。

 

 

さらに、うたプリにはプリライと呼ばれるキャストライブが存在し、これも相当な回数重ねているし、何より熱狂的にうたプリオタクから支持を集めている。もちろん、声優のファンじゃないし、声優=プリンスではないのでNGというファンがいることも承知しているが、ざっと見た感じNG派の方が少数に思われる。

むしろ、チケットは入手困難で、ライブのタイトルが1st,2nd,3rd,4th...と開催回数が重ねられていくタイプなので、毎回違うライブタイトルでライブごとの特徴を把握して暗記していた元ジャニオタとしては、シンプルな数字の羅列にも関わらず「いつのライブの誰のパフォーマンス」を当然のように暗記してスルスルとツイッター上でつぶやいている先輩ファンの皆さんには正直驚いていた。

そのくらい、熱狂的な人気を誇るうたプリ屈指のコンテンツがキャストライブである通称「プリライ」である。

 

 

で、ここまでの私の書きぶりでわかるように当初、私はキャストライブに懐疑的だったのだが、実際にライブDVDを見てころっとプリライの魅力にやられた。やばい。やばすぎる。こんな快楽が存在していいのか...!!???

 

「人形」の観点からすると、これもうひちゃっかめっちゃかな人形の魅力がドバドバ詰まっているからこんなヤバい快楽を得られるのかも....!!!!

 

というのも、プリライの楽しみ方は人それぞれだが、例えば「みんなでプリンスを想う」という以前お題箱にいただいた楽しみ方をするならば、人形なしで人形をみんなで見ている状態

 

オタク用語でいうと「集団幻覚」ってやつだが、『人形メディア学講義』風にいうと「中間領域」を3万人とかで共有しているということだと考えられる。

同書のトイ・ストーリー論やくまのプーさん論に見られるように、大人になって人形を捨ててしまっても主観的世界たる「中間領域」の中で、ずっとウッディと、あるいはぷーさんと生きていくことはできる。

 

プリンス達は、私たちの主観的世界では明確に生きていて、その主観が3万個重なってライブのハイになった状態でいるなんて、そりゃあ麻薬的な快楽だと思わない???私は思うよ!!!!

むしろ通常なら許されない「主観」を客観世界に押し付けることが許されている空間。一時的にそこは「狂気」が許容される。

むしろ「狂気」をインストールしなければ楽しめないし、というか巧みなステージ演出が中間領域の拡大を誘発している。

 

 

あるいは、例えば一十木音也の「中の人」たる寺島拓篤と重ねて「寺島音也」と呼んだり、「あのパフォーマンスは完全に『音也』だった」と評したりするプリライの楽しみ方もある。

つまり、人間である声優さん自身にプリンス(言ってしまえばキャラクター)が「憑依」したものとしてパフォーマンスを見るパターンがある。

 

これを人形的な観点から言うと、むしろ「人間が人形になっている」。

二次元キャラクターに「命を吹き込むanime」するはずの声優さんがむしろ、人形化するという倒錯的な状況。

おそらく、キャストライブは「2.5次元文化論」としても論じられるところであるが、2.5次元の主要コンテンツである2.5次元舞台は、舞台であるからしてキャスト変更が生じる。しかし、プリライはキャスト変更不可能であり、ふなっしーのように「着ぐるみ」であるプリンス達と「中の人」は分けることのできない結びつきがある。

うたプリ2.5次元化の際にわざわざ「再演」としたこと、それでもファンの中で議論があったことはまさにこの点に由来するだろう。どこまでうたプリを「着ぐるみ身体」として愛しているのか、というのがファンごとに異なる。)

 

その「透け」にこそ魅力があり、同時にそれほどまでに強い結びつきを「着ぐるみ」と結んでしまった「中の人」だからこそ、限られた空間でファンの声援という呪いじみた魔法を受けることで”入れ替わり”、「人形」としてステージに立った時の迫力がとんでもない。倒錯的な魅力さえも生まれる。

 

まさに「着ぐるみ身体」としての声優さん!!

 

さらに、プリライのパフォーマンスを受けて、プリンス達のパフォーマンスが影響を受けることもある。

ライブ映画「マジLOVEスターリッシュツアーズ」にて来栖翔のパフォーマンス中に他のメンバーがぞろぞろと出てくる演出は、プリライの下野紘(来栖翔の「中の人」)のパフォーマンス中に起きた出来事をオマージュしてるとか言われている。

あるいは、先日開催されたShining Star Stage2の一十木音也のパフォーマンスの振付は、先行して一十木音也の「虹色☆OVER DRIVE」をプリライで披露した寺島拓篤(中の人)の振付と重なっている。

"入れ替わり"は、中と外の双方にとって影響を与えずにはいられない。

 

まさに同書で言及されている「中/外の境界を曖昧にする」事態(=「中」と「外」の緊張関係)の発生であり、その「揺らぎ」こそが魅力となっている。

人形の魅力である「中」と「外」の緊張関係を味わうことができる!!

プリライは、こういう「揺らぎ」や「倒錯」「緊張関係」を体現するイベントで、だからこそ麻薬的な熱狂を生み出すことができる。

 

 

正直個別のパフォーマンスについて語り合った方がオタクとしては盛り上がるんだろうけど、キャストライブ...というかうたプリにおける「プリライ」のあの麻薬的な魅力については、新規として最初は戸惑うところもあったのに見たら全部"理解って"しまったので分析したかった。

(※なお、私もまだ全部のプリライに目を通せている訳ではない。でもめっちゃ最高だった。)

「人形」という視点は、そんなプリライの魅力の一部を説明してくれるように思う。

 

 

 

何より、やはりここでも私たちはプリンスや「中の人」と「共犯関係」を結んでいる。

プリライをどう鑑賞するにしても、プリンスを「思う」私たちや、「中の人」を外と入れ替える魔法をかける私たち、抜きにしては成り立たない。

そして、それが「アイドル」的でもあるという第一のレイヤーと絡まり合っているのであって、ますますうたプリの魅力につながっている。

 

 

 

・3DCGという「人形」

 

最後に、3DCG技術についても言及したい。

私はフル3DCGのアニメ映画でありライブ映画「うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVEスターリッシュツアーズ」でうたプリに魅入られてド新規をやっているオタクである。

映画初見が、昨年9月であり、うたプリオタクとして最初の大きな現場が今年3月の「Shining Star Stage SONG PARADE」という3DCGライブだった。

 

うたプリは様々なメディアミックスを行っており、PSPゲームの立ち絵に始まり、その後作画のアニメーションなどなど彼らの立ち現れ方は様々だが、私は圧倒的に3DCGの彼らと対面しているというまさに「新規」にしか味わえない、2022年製うたプリオタクならではの経験をしている。

 

タツア関係者のツイートを見ていると3DCGのモデルを「CGのお人形」という言い回しで表現している人もいて、3DCGもいわば「人形」である。『人形メディア学講義』でも、初音ミクの3DCGライブに言及していて、同書の射程内に「3DCG人形(もどき)」が含まれていることは疑いようがない。

 

で、ここでもまた「透け」感が魅力のうたプリは裏切らない。

新規には衝撃的なことに、うたプリのDVDの特典映像にはダンサーさんによる「振付」動画が含まれている。同書内のゴジラ論にも出てくるように、モーションキャプチャー技術で3DCGというお人形の中に入っている人が「透け」まくっている!!!

この特典映像によりファンは、またも「中の人」を確信するという不思議な構造...。

 

しばしばうたプリの魅力は「実在性」だと言うし、私もそれは確信している。でも、その「実在性」はファンタジーとして「中の人」を徹底的に隠すことで成し遂げられるのではなく、むしろ暴露的に「中の人」をさらして手の内を見せつつ、だからこそ「人形」としてのプリンス達は「実在」というよりも「スーパーリアル」な存在に昇華されるのではないか....。この辺は仮説だけど、うたプリの徹底的なまでの「透け」感には本当に驚かされる。

 

 

また、同書内のトイ・ストーリー論にあるように3DCGは従来、人間を表現するには向いていないとされてきたようである。

3DCGの「違和感」をコミカルなものに昇華できる題材として「おもちゃ」が主役であるトイストーリーは世界初の3DCG長編アニメーションになりえた。

うたプリにおいても、前作「マジLOVEキングダム」は作画が織り交ぜられていて、ダンスシーンは3DCGでもおしゃべりシーンは作画であり...それには、表情筋!!等々のツッコミが入っていたと聞いているので、やっぱり人間を3DCGで表現するのは難しいのだろう。

 

しかし、2022年に公開された「マジLOVEスターリッシュツアーズ」はフル3DCGで表情もめちゃくちゃ豊か!!!!!!!すごいね!!2022年!!!というかここまで頑張った技術屋さんが本当にすごい。

 

でも、これが光ったのはうたプリが「アイドル」作品であることも大きいと思う。

 

第一のレイヤーで触れたようにアイドルは「不自然なほど美しい」ことがある点で「人形」性をはらんでいる。またアイドルは「表情管理」という言葉があるように徹底的に表情をコントロールするがゆえに不自然なときさえある。

おそらく今もなお残る3DCGの不自然さを、「アイドル」としてのST☆RISHは「自然」なものとして備えていると考えられる。だからこそ、「スターリッシュツアーズ」という映画は「スーパーリアル」...realというのは「本当の」「現実の」という意味であるよりもむしろ「真に迫った」「存在感溢れる」ものである。「ああ!!そうそう!!!これがアイドルのライブ!!!」を私たちに味わせてくれる。

まさに3DCGであるという技術的な第二のレイヤーの「人形」性が、アイドルに備わる第一のレイヤーの「人形」性と絡まりあって、「うたプリ」の魅力に寄与している最高の例と言えるだろう。

 

 

そしてそして、3DCGライブであるShining Star Stage SONG PARADEである!

 

同書内の初音ミク論にあるように、ここでうたプリファンたちは二つの身体を生きる。

一つは、ただの映像に熱狂する「オタク的」身体であり、もう一つは彼らと電子メディアを通じて実在が可能になる身体。(p.209)

 

電子メディアを通じて彼らとつながる、という意味では初音ミクと異なる事情があるとはいえ、プリンス達のツイートであるプリツイがその役割を担うと考えれば、Twitter上では私たちとプリンスは同じ「アカウント」である。その意味で前回のライブではプリツイ企画が存在したことは天才的な仕掛けだった...!と分析できる。(ので、今回も欲しかった!笑)

 

しかし、身体が分裂したままでは、私たちは単にスクリーンと対峙して儚い夢を見ていただけに解消されてしまう。そこで、SSS2の現場で私たちは声を出す。声を出してこの世界で、私たちとプリンスが存在していることを証明する。

 

「ライブパフォーマンスに訪れた観客という立場を生かした想像/創造的な『自己表現』として、彼らは彼女に声をかけるのではないか。そうすることで彼らは身体の分裂を、取り戻そうと試みるのである。」(p.210)

 

 

新型コロナウイルス感染症の影響でここ数年は声出し禁止が続いており、古巣のジャニーズのライブでも私はここ数年「キャーーーー」という重要な彼らを成立させる魔法の呪文を封じられてきた。

そして、今年3月丸々3年ぶり以上に「キャーーーー」で召喚したアイドルは3DCGだった。

だが驚くほどに違和感がなかった。それはまさにアイドルが「人形」だったから、これまでの営みと何ら変わらなかったということを体感として証明しているようにすら感じる。ここでも「うたプリ」の中で第一のレイヤーと第二のレイヤーが交差している。

 

そしてアイドルであり3DCGである(=「人形」)彼らは、私たちの歓声により「アイドル」としてステージに立つと同時に、アイドルとして、人形としての「操作不可能性」を存分に発揮して、私たちを見つめ返し、狂わせる。

 

初日の夜公演、Baby! My Strawberryという曲で神宮寺レンとカミュが成し遂げたパフォーマンスは、まさしくそういう状況で。

意識的に「キャーーーー」を投げかける(ライブ冒頭の映像で一人ひとりが映るのに合わせて「音也ーーーー♡」とかコールするのはまさしく召喚としてのコールだと思う)ことは不可能で、アイドル=3DCG=人形に見つめ返されるほどの魅力を前にして、私たちは「ウギャアーーーーーーーーーー」と鳴かされる。

 

 

「共犯関係」と「操作不可能性」が、アイドルと3DCGという二重の「人形」性の中で発揮されている。

 

 

特に「共犯関係」は、「プリンスが実在する」ための必須条件だろう。

3DCGから話は逸れてしまうけれど、同書の「リカちゃん論」とも接続すると考えられるプリンス達によるツイート、通称「プリツイ」は同じ世界に彼らが生きていることを感じさせてくれる.......といえば聞こえはいいが、要するに私たちうたプリオタクが全力で「信じる」あるいは、関係者(ケイタマルヤマ先生など)がそう「振舞う」という「共犯関係」に立つことで、プリンス達は「生きる」。

あるいは、私が一般人には言えない回数通い詰めたライブ映画である「スターリッシュツアーズ」は、マジLOVEライブ上映でみんなでペンライトを振ることでそこにライブ会場を「作り出す」。

 

正直、これがもう本当にめちゃくちゃ楽しい。

プリライの所でふれた、中間領域の共有という本来なら起きないはずのことが起きているバグが、ライブの祝祭性に追加されることで脳内麻薬がおかしくなるくらい出てるのをバシバシ感じる。

 

うたプリは常に、こういう「人形」性に由来する悪魔的なほどの魅力を共犯者であるオタクたちに見せつけてくれる。

 

 

 

 

 

3.おわりにー待ってて、「美風藍」論

 

 

『人形メディア学講義』を読み、あえて「人形」として、うたの☆プリンスさまっ♪を眺めてみると、このコンテンツの底知れない魅力の一端を掴むことができた気がする。

この記事を通じて私はそういう話をしたかった...!!

 

何より「アイドル=人形」という視点を得て、アイドルの(3DCG)アニメーションである「うたの☆プリンスさまっ♪」を見ると、当然に二重の「人形」性を帯びるのであって、それがうたプリの悪魔的ともいうべき魅力につながっている。

 

 

 

そして、ここまでお読みのうたプリファンはお気づきかと思うが「美風藍」さんはどうなるのか?という重大論点が残っている。

少なくともアニメを見ればわかるように「美風藍」といううたの☆プリンスさまっ♪におけるQURTET NIGHTのメンバーは、ロボットであるという秘密を抱えている。

したがって、三重に「人形」性を帯びている。

しかも、作品内で唯一、自身の「人形」性に自覚的であるという批判的な立ち位置を有している。(Shining Star Stageの彼のパフォーマンスは、イントロのゼンマイ仕掛けの音に合わせて操り人形のようなロボットダンスを披露するという演出で、周りの美風担は号泣していた。当該部分のパフォーマンスは美風さんの誕生日のツイッターで「楽しみにしててね」とファンに語り掛けており、美風さん自身がアピールしたい部分でもある。)

 

残念なことに、私がまだ原作ゲームの美風藍ルートを終えていないことに加えて、『人形メディア学講義』内でも十分に論じられなかった点として筆者はロボット論を挙げている。ということで、分析対象たる「美風藍」についてもう少し私自身が見識を深めつつ、分析道具であるロボット論(そして乙女ゲームの美風藍ルートには「人形愛」の視点も欠かせないだろう。主人公と美風藍が恋愛するのだから。)についてもう少し勉強をして、今後の宿題としたい。

 

 

そして、当初、この本を手に取ったきっかけは「ぬいぐるみを媒介としたオタク同士のコミュニケーション」に関心を持ったことだった。

結局、うたプリというコンテンツそのものの分析にばかり目が向いて、ファンダム研究の足掛かりもつかめていないような記事になってしまった。

ただし、人形としてのアイドル、そして人形としての二次元キャラクターという両側面からファンという「共犯者」が必要なことが浮かび上がった。(ここまでは菊池先生は「共犯関係」に含めて言ってないかもしれない...と今更、笑 ブログだから許して!)

 

 

つまり、ぬいぐるみなんかなくても、アイドルオタクおよび二次元キャラクターのファンは、主観と客観の間の中間領域の中で「人形」を愛でている。

 

そんなオタクたちに、心の中の「人形」を具体化するような「ぬい」が与えられたら、熱狂するに決まっているし(しかも「ぬい」は一人に一つ以上与えられるのでまさに自分の主観としての「アイドル」そのものを手に取れる。「みんなのアイドル」」じゃない「わたしのアイドル」)、ライブ等々の祝祭的な場面では主観的な「人形」を「人形抜き」で共有しているのだから、そのライブ前後の時間でオタク同士で集まり、ぬいぐるみを通じてコミュニケーションを取り合うのは、その具現化として極めて妥当な行為である。

 

アクリルスタンドもまた「人形」であり、これらを連れて出かけるのは、近年の「推し活」ブームもあるだろうが、ブームの根底には、そもそも「人形なき人形」を愛でていたというファンたちの心理があり、それと発売したグッズがハマったという側面もあるのかもしれない。と、人形を通じたオタク同士のコミュニケーションについてはさしあたりの結論を与えて、自分なりには満足している。

 

 

 

以上、『人形メディア学講義』を読んだうたプリ新規の感想でした。

うたプリそのものについても、人形や演劇論についてもド素人なので、いろいろご容赦ください。むしろ教えてください。

 

そして、「人形」を切り口にした本を読んでこれだけ語りたくなるということは、まさにこれだけ「人形」が魅力的かつ生活に欠かせない存在だと実感しましたので、よかったらみなさん『人形メディア学講義』を読んでみてね!

こころをよむ 人形と人間のあいだ (NHKシリーズ)

も薄くて安くて読みやすいです!(私は勢い余ってどっちも読んだ!)

 

 

もし万が一、この記事が人形論関係者の目に留まったら、うたプリ見てください!!よろしくお願いします!!!!!