FREE STYLE2020に行ってきました。(以下ネタバレ?含みますよ)
(なお、当日の感想という感じで作品集を読まずにまずは私の主観と印象のみでお届けしています)
生きている、ここ何十年と存在している「大野智」という人物をこれでもか、と感じられる作品群で大野担でもないのに泣いてしまったよ。
10周年以降の永遠の新規なので、もう軽率に泣きます。
ねぇ、君の名前はずっと「大野智」だったんだね。
ジャニーズに芸名を持つ人物は横山くんを除いていないことを知っているので、もちろん大野さんが実名で活動していることは十分に存しているつもりだったけど、幾度となく聞いてきた2点のテスト、そしてそこに書かれた見慣れた筆跡の「大野智」にハッとさせられました。ああ、彼は大野智さんだったのか、と。
個展に行った感想の始まりに、作品そのものではなく展示の中の彼の過去のテストに言及していささか恐縮ではあるんだけども。割と前半にあるそのブロックから、なんか私の涙腺は完全に破壊されたし、あのテストから、私が今回の作品展を見る軸というか視点が定まったように思う。
初期の作品と一緒に過去の写真や幼いころの落書きが詰まったガラスケースは、ファンが集まってまさしく「密」でね。
そこにも、見慣れた筆跡の「大野智」の名前があった。
いまではガラスケースにいれられ、六本木ヒルズの52階に展示されているそのテストや美術の課題は、描かれたときは、彼の家族と友人とだけが彼の名前を呼び、そして彼がその呼びかけに答えたり答えなかったりしながら生きていた時間のもので、無数の人間が彼の名前を呼ぶ今とはまったく違う。
でも、呼び掛けられているその名前は同じ名前。「大野智」
20年、それでもかなり膨大だけど、でもそれ以上の、40年近い時間の流れを感じて、その一端に今日があり、彼の作品群の中に私がいることを知ってしまって、震えてしまった。その感覚を呼び起こしたのは、間違いなく「名前」だ。
彼はずっと「大野智」と呼ばれて、「大野智」を生きてきていた。
だって不思議だと思わない?
私だけかもだけどさ。自分がアンチになったり、逆に執着しすぎないように、「私が見ているのは、アイドルとしての彼だ」とか思うじゃん。私はずっとそう言い聞かせてきた。愛でも恋でもないファンをやるんだって、遠くから風を送る自分はお客さんで、私は1999年に「生まれた」アイドルを好きなんだと、アイドルの「大野智」なり「櫻井翔」なりと、その中の人を区別してきた。
でも、その中の人も同じ名前を持っている。「大野さん」「櫻井さん」と呼び掛けたその向こうで呼応する存在は、区別なんかできない「彼自身」だ。
誰から呼び掛けられるか、家族か、友人か、仕事関係者か、ファンか...それでもちろん浮かび上がる彼自身は変わるだろう。自己が関係の中にいるとすれば。
でも、それでも呼び掛けるその「名前」は同じ。共通のコード。
そして「彼自身」がその呼びかけに反応する/しない。
FREE STYLEは、彼自身を指す意味での「大野智」なのだと思う。
嵐であり、アイドルであり、現代を生きる人である、総体としての彼自身の発露であり、作品の呼びかけに、来た人が応じる。
今回の新規の作品は、抽象的なものが多くて。
でも、私は、ああ~~この人、嵐のこと大好きなんだな!と思う。
うまく言えないんだけど、嵐の5色が頭から離れないんだろうなって。意識的に使ってる面も大いにあるとは思うけど、それにしたって、色味がファンアートみたいな、5色はとりあえず使います、みたいな作品がそれなりにあったように私は思った。
細かいのも、別にグッズにするわけじゃなかろうに、AMNOSというかさ。
まぁ逆に言えば、今まであんまりそういうモチーフがなかったから、日常生活にまで嵐が流れ込んできて、離れられなかった、とも言えるのかもしれない。
混沌とした抽象画がそうなら、なおさら。
それは両面だと思う。執着と愛みたいな。言い方の問題というか。
大野智という人間が、アイドルという仕事をしながら、食って飲んで寝て+アルファの日常生活もやりながら生きて、趣味と割り切るにはやや有名になってしまった表現をするならば、やっぱり1回目のFSとは違うエネルギーの現れ方をするのかな、って。
総体としての彼の中で、嵐が溶けるように大きくなってバランスが崩れて、調和か混乱か、不安か、快楽かを行ったり来たりしながら嵐を生きて、大野智を生きてっていう。
抽象的でないのだと、ジャニーさんの絵ね!めっちゃジャニーさんだと思った。
だってギネスの時の公式の写真だから、みんなのイメージの中のジャニーさんをなぞっている「アイコン」としての社長のまま。
さらに、デフォルメされてカラフルなつぎはぎから成るあの絵は、いろんなタレントの「ジャニーさんトーク」の総体として出来上がった、実体はよくわからないが日本でトップクラスに知られている芸能事務所社長の姿として100点満点だった。
それは、大野智が社長を描いてああなんだから、きっとイメージのかたまりというつかめなさと、実際に触れあえる社長との、アンビバレントな人だったんだろうね。
「大野智」と、同じ名前を使いながら、彼をステージから降ろさせなかった狸だか狐だかのじじいなだけあって、魔法使いみたいな。
「大野智」を無数の人が呼ぶ名前へと変えた存在。
パグ。
前回のよりも体をしっかり描いてたね。そして5色が黒い艶ににじむ。
鬼なのはかわいいからだろうけど、怒ってる?なんて。
私は、ごめんって思った。
細密画
FS2020の細密画は、細密画というよりもはや宗教画。曼荼羅、曼荼羅だよね。何個か小さいものも含めて曼荼羅があった。
その背後に5色の星が光る宇宙。大野さんが宇宙を描いているので、あれは間違いなく曼荼羅です。そして明確に紛れ込む嵐、翔、潤、和、雅、智。
宇宙は混沌なのだろうか?それとも調和??
輪廻。
怒涛の意味。秘儀を読み解けるか?
映像作品
私はFSⅡのものよりこっちが断然好き!
めっちゃシュールで。大野さん楽しそうなのがわかって。
相変わらず踊りは上手で。
ランタン
あの中に、カイトのジャケットをいれたら灯るね、なんて。
5色だったよね。穏やかで鮮やかな5色だった。
きっと最近の絵だろうから、最近の大野さんはああなのかなって、なんか少し安心した。好きなことがあって、5人でいて。
新作じゃない、FSⅡの作品の展示は今回の形式が好みだったな。
ってか、作品を前にすると前回の展示がありありと思い出されて、こうやってモノってのは記憶を引き出すのだな、と実感。
フィギュアはまとめず点々と置いてあって。革を使った作品や小さい作品がまとめてフェンスの中にあるのも、小さいものはここにあるほうがなんかしっくり来た。
前半は、運ぶのに使った木箱を展示のために使ってて、なんか大野さんの創造の場の空気が感じられる作りで、、白とか黒のザ・個展って感じの空間もいいけど、ああやって作ってあるのもいいな~~好きだな~~と。
何より、ふと目をやると大パノラマの東京が広がっている特殊な空間で、大野さんの大空に羽ばたいて、空を突き抜けて宇宙にまで行ってしまう想像力の翼につかまって、私たちも高いところに連れて行ってもらっている気分になる。
多少は焼けちゃうだろうから、どっかの美術館に貸してもらった作品や値のつくものの展示には適さないところで、大野智の個展をやるの、正解だったんだな....。
想像力の翼でだけたどり着ける大野智の天空秘密基地みたいで、わくわくした。
帰宅してFSⅡを読み返した。「大野智」を感じて欲しい旨が書いてあって、この人はずっと正直に、まさに彼自身である身体で、手を使って絵を描き、ものを作り、踊り、歌い、、、してきた。
どの大野さんも、みな「大野智」であって、アイドルとして、とか日本在住の方として、とかって窮極のところは区別できない。
そういう彼自身を、私は好き。
彼はリアルで生きていて、彼は生身でアイドルやっている。そのことの重大性から、私は逃げてはいけない。少なくとも今日のFS2020は、生身の大野智のエネルギーを肌で感じられる場所だった。呼吸が聞こえるような。
アイドルが好きってどういうことなんだろうね、10年以上やってるけどわかんないや。
「人として好き」って言えるほど彼(ら)のことを知らないし、会話を交わしたことも、遊んだり食べたりしたこともない。
「彼が提供しているエンターテインメントが好き」と、サービス提供者とその客でいられるわけでもない。彼が提供しているサービスは、お芝居やショーだけじゃないから。
アイドルになる前から持っている名前で、その身体で、フィクションとリアルの間を揺れる彼自身を愛している。
名前を呼び合う関係にない人間が、ある特定の人間を見つめ、そこに思いを重ねること。その暴力性から私はずっと逃げたかった。
私の名前を呼ぶことのない人間が、私の人生に大きな影響を持つ状態から抜け出したくもあった。
だから、「アイドル」としてのあなたが好きだって、究極のところは私はお客さんだって、言い聞かせてきた。
でも、そうじゃない。わかってたけどそうじゃないよね。
FS2020に行って、はっきりわかった。
大野智という人の想像力と呼吸を存分に感じられる空間が、「アイドル」と「中の人」と分けられるものではなく。そこで生きている人間がいる。
そしてこの事実こそが、今年の年末という期限につながる。
私がずっと理解することを拒否してきた。
「もう深刻な嵐は見ていられない」とのんきにバラエティー番組ばかりみている私が、何を回避しようとしていたのか。
「他者さまの人生を消費するなんて、そんな暴力的な...」ときれいごとを言って、臆病な振りをしている時間は、もう、本当にない。
そんなこと、もうとっくに当人たちは織り込み済だろう。身体全部で今を生きてぶつかってくる「嵐」
ファンだから、群衆の中の一人、君の名前を呼んでも応答はなくて当たり前だと、思い込もうとしていた。来年以降も正気を保っていられるように。
勇気を出して、過去の私のように、身体全体で嵐を感じて、耳を澄まして。
油絵具のラインのように、たった一回きりのオリジナルなラインを引いて、今日もファンに応える生身の身体の息遣いが聞こえる。
大野さん!
素敵な作品をありがとう!!