LOVE!LIFE!ENJOY!

好きなものなんでも書く場所になってます

ふたつのOver the Rainbow-一十木音也の「ゲイネス」をめぐる一考察

 

 

この記事は、Debut一十木音也√(友情エンド)を、二つの「Over the Rainbow」という曲を切り口に音也くんの「孤独」と「未来」を考察します!!!

 

いつもはダラダラ私の感想が書いてあるだけですが、今回は、別の映画「オズの魔法使い」劇中歌で音也のデビュー曲と同じ名前の「Over the Rainbow」をフックに「ゲイネス」という概念を使ってDebut音也√の友情エンドを分析してみよう!!結論、ルレってとんでもないね!!!!っていう話です。

 

ということで、他の音楽や映画、LGBTについての概念を道具にして、音也√をのぞいてみよう!という趣旨が地雷っぽい人は閲覧をおすすめしないです。

なお、創作ではないので特に右とか左とかは想定しておらず、ルレの強い絆(「友情」エンド)の話ですが、何かあっても私は責任をとれませんのであしからず...。

 

とはいえ、評論の訓練とかも受けたことなくって独学ド素人が好き勝手やってます...。

 

とにかく、まじで人を選ぶ感想な気がしているのでお気をつけて責任取れないですからね...!!!

 

注意書きは以上!

 

 

個人的にとんでもない衝撃を受けたDebut音也√友情エンドに愛をこめて。

 

 

 

 

 

 

=====

 

「うたのプリンスさまっ♪Debut」というゲームの一十木音也√で、最終的にパートナーの七海春歌と作り出すデビュー曲は「Over the Rainbow」である。

 

 

この記事は、そのDebut音也√を分析対象とした文章であるにもかかわらず、

まず、分析のための道具として、もうひとつの、全く別のOver the Rainbowという楽曲の話をさせてほしい。

 

おそらく、世界で一番有名な「Over the Rainbow」は映画「オズの魔法使い」の中でドロシー役のジュディ・ガーランドが歌った「Over the Rainbow」だろう。

 

そして、このOver the Rainbowはゲイのアンセムであり、ジュディ・ガーランドは当時の同性愛者のアイコンだった。世界的な同性愛者の権利運動のきっかけとなったと言われている「ストーン・ウォールの反乱」は、ジュディ・ガーランドの死を悼んでゲイ・バーに集まっていた人々を警察が違法に取り締まろうとし、それに反対する運動がきっかけになったと言われている。現在、LGBTの運動で虹色の旗を振るのは、Over the Rainbowがきっかけではないかという俗説が流れるほど(実際検証するとそうではないらしい)ジュディ・ガーランドOver the Rainbowと同性愛者の歴史は深い。

(詳しくは、ジュディ・ガーランドはなぜゲイの人々から支持されたのか? )

 

ちなみに、今月はプライド月間で外資系企業の店頭に虹の旗が立っていたりするが、それは「ストーン・ウォールの反乱」が6月に起きたから、6月はプライド月間だ。
そして、Over the Rainbowを歌うジュディ・ガーランドの命日は、6月22日である。

 

 

なぜ「オズの魔法使い」が同性愛者に愛されたのか?

一説にはその「キャンプ」な感性に満ちた点であると言われる。「キャンプ」とは「あえて定義すれば、人工的でわざとらしいもの、どぎつく悪趣味なものを「愛でる」態度」だという。また「キャンプの美学にはまた、一見するとストレートに見えるよう偽装することも含まれている。ただし、うまく隠して誰にもわからないようにするのではなく、隠しつつ、いわば思わせぶりにウィンクをしてみせることで、隠していることを自ら暴露すること」も含まれる。

 

例えば、「オズの魔法使い」に登場する臆病者のライオンは、「臆病者」である点で「ライオンらしさ」とはかけ離れている点で、「普通」との違いに苦しんでいるが、同時に「ハンカチがわりにしっぽを目にあてて泣く仕草」で「女性らしさ」をにおわせて、「普通」に擬態しても擬態しきれずどこかで隠していることを暴露している。

 

ドロシーの出会うブリキの木こり、臆病なライオン、かかし、はみんな何かが「欠けている」と自分に対して思っている。そしてその「普通でなさ」を隠したり、隠せなかったりしながら、生きている。

そういう「孤独」や、世界の「普通」とのズレを抱えた「オズの魔法使い」のキャラクター達が、「普通」とは違うとされる同性愛者の胸を打ったのではないか。

何より、Over the Rainbowは、アプリ等もなく自分と同じ人間がこの世界にいるともわからなかった田舎の同性愛者にとって「Somewhere over the rainbow虹の向こうのどこかに」信じた夢がすべて現実になる場所がある、という歌は希望であり、しかし同時に飛び立つことのできない自分にとっては手の届かない夢でもあることを自覚させるメロディだった。

ジュディ・ガーランドその人自身もまた『オズの魔法使い』以降に演じた作品の中でキャンプな感性を見せ、同性愛者に愛されたと言われている。
(参照:菅野優香「ジュディ・ガーランドを愛するということ―キャンプ、ドラァグフェミニズム」『クィア・シネマー世界と時間に別の仕方で存在するために』(フィルム・アート社、2023年))

 

 

 

 

さて、ジュディ・ガーランドOver the Rainbowと一十木音也のOver the Rainbowという二つの同じ名前の曲を手掛かりに、一十木音也の「孤独」について考えたい。

 

 

 

一見してこの二つは名前が同じである以外に何の共通項もないようだが、「家族」と「愛」をめぐる「普通」と「孤独」について共鳴していると私は考えている。

 

 

 

「...ねぇ、春歌。家族って...幸せって何だろう...。」(9月)

 

 

うたのプリンスさまっ♪Debutにおいて、一十木音也が直面するのは「家族(がいない)」という事実だ。

正確にいえば、「家族」がいなくて施設育ちであるという事実そのものはほぼゲーム1作目にあたるうたの☆プリンスさまっ♪Repeat音也√の段階から明らかにされていたのであって、Debutでは「だけどそんなの全然気にしてないし!」というニコニコした振る舞いと自分自身が抱えてきた哀しみとのギャップに苦しむ。

先輩である寿嶺二と共演するドラマにおいて「家族を失う」という演技をすることになり、彼のトラウマが開いてしまったためにこれまで通り「普通」に「ニコニコ」と振舞うことができなくなり、歌えなくなった所からの再生がメインストーリーだ。

 

 

「家族」がいないという出自は、何かにつけて明らかにされやすい(嶺二がきわめて自然な話の流れとして「おとやんは大家族だったの?」と聞くように家族構成についての質問はセンシティブでありながらよくあるコミュニケーションとして行われる)ので、完璧に隠すことはできないが、「でもぜーんぜん大丈夫!」と言う風にふるまってカバーをする。水面下では必死に手足をバタバタさせて溺れないようにしながら、水面から出ている顔は平気にするみたいに人の何百倍の努力で「隠す」。これで世界は「普通」に回り出す。

家族がいるのは「普通」で、俺は「普通」じゃないけどでも大丈夫!明るく元気で仲間がいるから!!これで世界はキラッキラ!!

 

「普通」との距離を感じながら、「普通」に見えるように、「普通」に見えなくても大丈夫なようにもがき続ける。

この「孤独」は誰とも分かち合うことができない。

 

Debutで明かされた一十木音也の苦悩はそういうもので、その苦悩を越えて生み出されたのが一十木音也のOver the Rainbowだ。

そしてここがジュディ・ガーランドOver the Rainbowとの交点だ。

 

ここで言いたいのは、彼が同性愛者だとかそういうことではない。(そんなこと彼にしかわからないし、少なくとも私が読んだのは明確に七海春歌という女性と結ばれるストーリーである)。

「普通」との距離ゆえに「普通」を意識し、「普通」になろうともがき苦しんで疲れ果てて壊れてしまいそうになるその経験は、「異性愛」と「同性愛」の距離そのものと重なる。

そして、最終的には「普通」な世界とそうではない自分の距離に蹴りをつけて、歩き出す。

 

 

蛇足だが、『オズの魔法使い』で主人公ドロシー達が目指すのは「エメラルドの都」だ。エメラルド色の瞳を持ち魔法を使う王子様とその母親のことを知っているうたプリプレイヤーにとっては、これが示唆する皮肉は強烈すぎる。

虹の向こうの「エメラルドの都」。かの国にも、音也の歌は鳴り響いただろうか?
(「虹の向こうに 空高く 魔法の国がある」)

 

 

二つのOver the Rainbowは、「普通」との距離に苛まれ、「孤独」を抱えた者を迎える歌だ。虹の向こうに楽園があったらいい、実際はないことを知りながらも、歩みを止めない者の歌だ。虹の向こうに行けなくても、ここで生きていくことを覚悟する歌だ。

 

 

そして、Debutを経た音也が、「普通」との距離やその偽装にこだわることを辞め、等身大の自分でまっすぐに歌い、未来に向かって歩き出すことを意味するのなら、もしかしたらそれは一十木音也の「ゲイネス」をも指し示しているかもしれない。

 

「ゲイネス」とは、学術的には「異性愛原理と家族制とを前提とせず他者の身体に関わってゆくこと」であり、しばしば「ジュディ・ガーランドはゲイネスと同義である」と言う風にゲイの象徴とかゲイらしさとかいう意味でも使われる。

いろいろ複雑だし私は詳しくないので、反異性愛で反家族主義くらいに捉えて進ませて欲しい。

 

 

 

私は、一十木音也の「ゲイネス」に惹かれている。

 

 

 

もっとも、二次創作ではしばしば男性とカップルであるが、描くひとによって彼が「ゲイ」であるかどうかはかなり微妙であるし、私が考察対象としているのは七海春歌という女性と結ばれる強制異性愛ストーリーである。そのうえ、恋愛エンドでは明らかに結婚を匂わせており(例によって春ちゃんが鈍感なのでピンと来ていないが)、「乙女ゲーム」のセオリー上、男女が結ばれて「幸せ」なのだから、「異性愛原理と家族制とを前提とせず他者の身体に関わってゆくこと」とは程遠いかもしれない。

 

 

 

しかし、友情エンドがある。

 

 

 

恋愛エンドでは、「普通」の逸脱に悩んだ音也くんが結局は七海春歌という女性と結ばれ、生育家族の逸脱を創設家族の「普通」で補うというストーリーになる。(「孤独」は異性愛の「結婚」をにおわす家族制で癒されてしまう。)乙女ゲーム=恋愛ゲームの宿命である。

 

 

しかし、友情エンドは違う。「友情」エンドの名前の下で、同室の一ノ瀬トキヤという男との絆が物語を動かし「エンド」を迎える。

そもそもこの音也√における一ノ瀬トキヤのセリフは、「乙女ゲーム」のセオリーを覆しかねないシンデレラストーリー破壊の強烈な一言である。

 

「家族がいればそれだけで幸せとは限りませんよ。」

 

 

Sweet Serenadeトキヤ√でも長々と述懐されたトキヤの家庭環境であるが(現時点で私はDebutトキヤ√未履修)、こんな風に「王子様とお姫様は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」のその先を「めでたし」で終わらせない男が王子様ソングを歌ってる狂気の話は置いておくにしても、これは異性愛原理と家族主義への強烈なアンチテーゼである。

「普通」でない、「家族」を知らないともがく一十木音也に、「普通の家族」だからって幸せになるとは限らない、とコメントする。もちろん、この8月の段階では「でも死んだらもう一度話すことはできない」と正論で音也は返す。だけど、そこで返された論点は親の生死についての論点で、トキヤが伝えたかった「家族=幸せ」の理想像にこだわる必要はないという論点については未回答のまま、センシティブな会話ゆえに終了する。

 

 

そして、友情エンドの終章で、「歌えない」状態から一十木音也を引きずり上げるきっかけを担うのは、一ノ瀬トキヤだ。

 

 

先にデビューを決めたトキヤが、ソングステーションで歌うから観に来い、と誘う。そして、意味深すぎて司会者も「おおー!大胆告白か~」的な茶々を入れざるを得ないコメントともに歌を披露する。

これまで散々、七海春歌が懸命に手を握り愛を伝え、抱きしめ、自分ひとりでしか戦えない内面の葛藤を支えてきたにも関わらず音也くんはずっと復活できなかったのに、一ノ瀬トキヤの歌はものすごい勢いで物語を動かし、音也を光へと連れ戻す!!!

 

 

この歌で、一十木音也は復活し、再び「歌える」ようになる。

 

「俺の歌はいつだって自分の心に正直じゃなきゃダメなんだ。それが俺のスタイルだから!」

「トキヤの歌とメッセージを聞いてやっとわかったんだ。俺が本当は何をしたかったのか。」

 

 

友情エンドにおけるOver the Rainbowは、「自分の心に嘘をつかずに正直に歌う」というこれまでの音也らしさの延長のように見えながら、人に好かれるような自分だけを見せるのを辞める、という意味で断絶した「自分の心に正直」な歌。

つまり、「普通」じゃないけど「ぜーんぜん大丈夫だよ!」と見せるために水面下でバタバタと泳ぎ続けていた脚を止めて、全然大丈夫じゃない日もあるし哀しいこと、苦しい日もあるし、明るいだけじゃないけど、そんな自分が「本当の自分だよ」と。

 

この記事では音也くんの「普通の偽装」を切り口に彼の「ゲイネス」に迫ってきた。だとすれば、トキヤの歌とメッセージを聞いて「普通の偽装」を辞めるのであれば、それはある種のカミングアウト、暴露のメタファーだろう。

「いつも明るくニコニコしていなくちゃ」(「普通」のフリして周囲に馴染まなきゃ)から「自分の心に正直になる」(これが自分だ)へと切り替わり、歌うことを決意する。

心の奥に封じこめていた自分のみないフリをしていた感情と向き合って解放するというストーリーは、明らかに暴露的だ。

 

しかも、それはトキヤによって解き放たれる。

 

 

さらに、友情エンドはソロライブを開催し、その舞台裏での音也とトキヤの決意表明で締められる。

 

音「この一歩を踏み出せば、俺たちは別々の道を歩き出す。二度と振り返ることはない。」

ト「互いに道は違っても、目指すべき場所は」

2人「「ただ一つ!」」

音「トップアイドルになるその日まで、俺は走り抜いてみせる」

ト「あのステージこそ、あなたの行くべき場所。進むべき未来です。」

 

 

「家族」をめぐり「孤独」を抱え、そこから再生するストーリーとしてDebut音也√を捉えたときに、このエンドほど苛烈な、それでいて解放的なエンディングはない。

 

恋愛エンドでは、音也の見つける居場所は「ステージ」であることも示唆されていると同時に、そのあとに春歌ちゃんと向日葵畑に行って抱きしめるスチルで締められるので、春歌の「傍」もまた音也くんの居場所になる。春歌のところが「ただいま」と「帰る場所」になる。「家族」の不在は、新たな「家族(=お嫁さん)」によって埋め合わされ、その意味で家族主義的だ。恋愛エンドは、音也が生きる「居場所」はステージであり春歌の傍でもあって、特にスチルはステージから降りた向日葵畑のスチルであるので、二重の居場所のうち、特に恋人との幸せにこそ比重が置かれているのかもしれない。(だって「恋愛」エンドだからね。)(私の感想はステージ重視でしたが。)

したがって、「家族がいるからって幸せとは限りませんよ」というトキヤのセリフは遠ざかって忘れられていく。意地悪な言い方をあえてすれば、音也と春歌がトキヤの両親のようにならない保障はどこにもないのにもかかわらず。

 

 

 

 

一方、友情エンドでは、音也の生きる場所は「ステージ」としか解釈のしようがない。

ステージに立つのは、ひとり、でもライバルがいるから走り続けられる。

 

 

2人の男がハイタッチをして別々の道へと歩きだす。
(ハグをする男女のスチルとなんて対照的なのだろう!)

 

 

「普通」にも「家族」にも確約された幸せはない。だったら、苛烈な「ステージ」で生きていく。

未来は、異性愛でも家族主義でもない身体的なつながり、つまりゲイネス的な場所にある。

 

 

 

 

このように二つのOver the Rainbowは、「ゲイネス」という点において奇妙な交差をしているように思えてならない。

 

 

そして、それこそが一十木音也の底知れない魅力につながっている。

ステージに賭け、逸脱すらも輝きにして背負い込めるようなスター性。

孤独を埋め合わせないまま走る者の渇望が滲む温かくも鮮烈な歌声。

 

 

 

繰り返し言えば、これは一十木音也くんの性の在り方の話を直接にしている訳ではない。

ジュディ・ガーランドはゲイネスの象徴である」という言い回しがあるように、その人自身とその人の象徴的なメッセージは異なる。

 

Debut後の音也くんの活躍はまだ知らないが、「普通」との格闘を経て"Over the Rainbow"を歌う彼はその道の始まりにいるような気がする。

 

何より音也くんのOver the Rainbowは「いつの日か太陽になりたい」と歌い上げる。「太陽」そのものになるのは不可能であるから、ここで言う「太陽」は何らかの意味で象徴的な存在であろう。

ステージの上で何かの象徴になること、それは本当に孤独なことだ。ましていわんや「太陽」などになってしまったら、自分自身すらも焼き尽くしてしまうかもしれない。「すべてを失くしてもいいからこのステージに立ちたい」は、「太陽」のメタファーと合わせて考えると、あまりに苛烈で、だからこそ大衆を惹きつけずにはいられないスターへの道を開く。

つまり、Debut音也√友情エンドは、「家族」=「幸せ」=「孤独じゃない」の考えに蹴りをつけ、徹底的に「孤独」であったとしてもステージで太陽になることを選び取る物語になる

 

 

ちなみに、詳しくは「ジュディー虹の彼方に」という映画を見ていただきたいのだが、もう一つのOver the Rainbowの歌手であるジュディ・ガーランドはそれはそれは波乱万丈な人生で、まさに自分自身を焼く炎で輝き、焼き尽くされるように死んでいった。

映画の中で、彼女は「業界」で生きるために子役時代からのドラッグ中毒でヘロヘロ、40代後半にして歌う曲を忘れステージ上で倒れるほどにエンタメに魂を食われている。出会う男たち(異性愛)は、離れていき、必死でしがみつこうとした「母親」という地位も手放さざるを得ない。

 

 

じゃあ、ここで壮絶な覚悟を持ってステージに立つことを決めた音也くんの未来は、まぶしくも苛烈で、自身の輝きで燃え尽きてしまうような明るくも悲しい太陽なのだろうか?

 

 

否。

 

音也くんには、最高で最強のライバルがいる。

 

 

一ノ瀬トキヤがいる。

 

 

燃え尽き燃やされることすら許さない。太陽になると言ったなら、輝き続けなさいと、同じくステージに賭ける男が共に走り続けるのならば、そんな未来は来ないだろうと、私は確信している。

 

 

 

 

最後に、もう一つのOver the Rainbowの歌い手であり、映画で描かれるジュディ・ガーランドの人生もまた苛烈で解放的なので、映画のネタバレ込みで勝手に音也とトキヤの行く末を占わせて欲しい。

 

 

映画「ジュディー虹の彼方で」の中で、夫との関係が破綻し、子どもの親権も得られないジュディ・ガーランドは、映画の最後の最後で自分が台無しにしたために追い出されたクラブへと代役のショーを見に行きたいと言い出す。

(英語が得意じゃないので、聞き取りを微妙に間違ってると思うんですが文意は取れてるはずなのでスルーしてください泣)

 

 

"I'm still believing, you know, in love found in audience." 

「まだ信じているのよ。客との間に生まれる愛を。」(Amazon字幕版)

「それでもまだ信じたいの。スポットライトの中で愛されることを。」(HP予告編字幕)

 

 

 

そして、クラブへと向かい、ステージの光を見てこう言い出す。



"Could I give on just one song?"

「一曲だけ歌わせてくれない?」(Amazon字幕版)

 

 

直訳すれば、こうだ。しかし、映画の予告編の訳はまたもすごい訳がついている。

 

「歌わせて、ここでしか生きられないの。」

 

 

 

 

 

「業界」の中で、「普通」になんか生きられなかった彼女が最後まで選び続けた「ステージ」。その「ステージ」で生きること。

 

映画のラスト、Over the Rainbow を歌いきれない彼女を支えるのは、彼女の大ファンであるゲイカップル、そして観客たち。

 

ジュディ・ガーランドの人生には、観客との、スポットライトの中の愛があった。

 

 

 

じゃあ、一十木音也には?

もうひとつのOver the Rainbowの歌い手である、一十木音也にも、わたし達ファンとの愛があるはずだ。

そして、孤独なはずの「ステージ」に立つことを競い合うライバルである一ノ瀬トキヤがいる。

 

異性愛でも、家族主義でもない「愛」の中で、「孤独」を引き受けながらも歌い続ける。

そういう解放的な「愛」を描く、Debut音也√友情エンドは、私を惹きつけてやまない。