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「阿呆」が「かっけぇ」件について。


2020年初現場は、阿呆浪士に討ち入ってきました!

 

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初体験なのですが、ジェンダー観が信じられないほど古くて、いくら時代劇とはいえ無理あるだろ....ってレベルだったにもかかわらず、普通に面白くてツッコミながらも3時間あっという間でなんだその演出技術...と逆に驚くという。
小劇場系の「喜劇」ってたまに滑ってることあって、それで3時間弱か~う~んと思っていたのに普通にお腹いっぱいになるという。
展開の面白さと会話のテンポの良さのおかげかなぁ。結果的に、ジャニオタをなめている感じもなく...。あと、書いてみると考察のしがいがある脚本なのは、その古すぎるジェンダー観が逆に「男」の「阿呆」というこれまたステレオタイプなのですが、ひるがえってToxic masculinityの皮肉になってしまっているという構造故に面白いのかもしれません。

 

 

 

ジェンダー観は、聖母と娼婦の二分法ど真ん中で出てくる女性キャラクターが、母・妻か娼婦・性的魅力を持った若い娘しか出てこない。セクハラやDVを「笑い」として提示するのは無理すぎる。

 


それはこの作品が「男のロマン」を語る作品であり、主人公である八っちゃんが「阿呆」として名を馳せるエピソードも「しょんべん」や男性器の露出がキーワードであり、さらにセクハラをするというのが「男の甲斐性」であり「阿呆」として描きだされる。
そんな「阿呆」がスカッとジャパン的に討ち入りをする「阿呆浪士」と。

 


八っちゃんに、町人と侍という身分の非対称性を語らせることで大石内蔵助を困惑させるのは、見事だったけど、その非対称性がわかってて他の非対称性がよくわかってないのも謎だ~というのはちょっと思った。結果的に八っちゃんに言及させた武士と町人の非対称性も乗り越えてしまうし。

 

 


身分や立場の非対称性と個別性があるにもかかわらず寄せ集めの四十七士が「討ち入る」きっかけとなるのは「ノリ」。
何者にもなれない者たちが、この「祭り」に賭ける「ノリ」によって何かを成し遂げられる。
「ノリ」で討ち入る俺たちは「阿呆」だ!として、討ち入りを「祭り」として描き出す。
その「ノリ」こそが「男気」であり、「阿呆」の生きざまとして、討ち入り後の切腹まで描く。紙吹雪舞い散るなかで、その討ち入りと死は、忠臣蔵が今までさんざん映画やドラマになってきたことからわかるようにドラマチックで涙を誘う。紙吹雪きれいだったー!

 

で、おそらくこの劇が「現代にも通じる普遍性」として描きだしているのはここのハズなんだけど、どこまで批判的に自覚的なのかは謎。笑

 

ただ、「男性性」批判と読むと少し面白い。

 


平和な江戸で刀を振るうという「討ち入り」が、暴力的な「祭り」であるとして、そこに「何者でもなかった者」たちが、これを機に自分の人生に意義を見つけられる!と「ノリ」で参加する興奮というのは、かなり危険だと思う。
まさしくそれが「阿呆」なら、この作品は殺戮に浮かされ、あるいは忠義という大きな物語に乗っかることで自我を得ようとする「男たち」への皮肉になる。

ここでは「男」=「戦争」というステレオタイプな二分法に乗っかって考えてるんだけど、笑。

 

 

 


大石内蔵助が口にしたように「もう正直に生きたい....。」という思いがあったのに、大石は死ぬ。
そして「正直に生きることはつらいことだよ?それでも私と一緒に生きてくれるの?」と言う遊郭の女性を連れ出して、結婚し、一度は
「正直に生きる」と言って討ち入りに参加しないのに、最後には「自分も忠義のために死にたかった」といって自殺する貞さん。
この「阿呆」たちが、死んだのは「忠義」という大きな物語に参加する「ノリ」というカッコよさのため。
カッコ悪くても、ノリが悪くても、「正直死にたくねえ、生きたい」という選択をし続けることの難しさを彼らは示す。

 

 

 

そう考えるとこの作品は、男性性への壮大な皮肉か?なーんてね。

 

 

まぁ、単純にそうしてしまうとすずさんの立ち位置がよくわからなくなるんだよね。

ただ、彼女が先導しても集まった48人は動かないわけで(「何を言うかではなく誰が言うか」)、彼女は女性が戦争に参加することを示唆している、という感じのキャラクターには見えなくて、どこまでも「娘」という家父長制の中で位置づけられ、かつセクハラを受ける「若い女」であるという。父に言いつけたり、殺したりできるのにそうしないのは、「セクハラをいなしている」状況ですよね。ずーーーっと「オネエチャン」って呼ばれてるし。

 

 

 

 

 

 

たぶん、一般的に考えて「生きたい」「正直に気楽にいたい」という発想のほうが『人間的』だと今なら考えがちだけど、案外「パッと桜のように散りたい」という方が「ノリ」がよくて『人間らしい』、粋な選択になってしまうのかもしれないね。


貞さんが死んだのは、かっこわるさに耐えられないから。八っちゃんがかっこいいのは、「潔く死ぬ」男らしさ。

 

 

帰り道でトリッパー遊園地を思い出していた。あれも最後に「みんなのために死のうとするかっこよさ」が描かれていたことを思い出していた。あれも、ああした方が「人間らしい」「人情味がある」選択だったよなぁ....と。

 

 

 

確かにかっけぇんだけどさ。

「戦」「戦争」がなんだったのか考えるとき、「かっけぇ死」はけっこう危ないし、「かっけぇ」から誰もやらないのかな...と思ってたけど「ノリ」がその引き金になるならなおさら「かっけぇ死」は危ないんじゃあないの、と思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

にしても、戸塚くんは「男らしさ」を演じさせると楽しそうで一級品でなによりです、笑
かわいいし。
福ちゃんも男前すぎて途中結構きゅんきゅんしたわ。

大石内蔵助役の俳優さん、声が良すぎて、芝居の抑揚もたまらなくて、こ....これがベテランの力か~~~!とひれ伏せました。

 

 

だから、ツッコミながらも結果ものすごくエンジョイした観劇だった。こういう体験もあるもんだなぁ...。