友人に、文藝の韓国フェミニズム特集を見せられて、その中の「私と推しとフェミニズム」というエッセイのページを見せてもらい、「あなたの書く同じタイトルのエッセイが読みたい!」と言われたのがすべての始まり始まり。
そんなの苦しい作業に決まっているので、「私が二つに裂けちゃうから書けないよ。」って言って終わらせた会話。
だって、BTSのファンであればそれはきっとそのタイトルのエッセイは書きやすいでしょう。でも私はジャニーズのオタク。そのエッセイの中で筆者がなじめなかった日本の男の子が微笑む文化。
もっと言えば、フェミニズムを支持している人が批判するような要素がたっくさん詰まった日本の家父長的でホモソーシャル的な芸能界を支える大きな事務所であり、今年亡くなった元社長は性暴力の告発がなされている。
BTSとの対比で言えば、それは卑下されるような「日本」のコンテンツであり(筆者さんはそんな風に言ってませんし、文藝全体も韓国はよくて日本はだめ、なんて言ってません。あえて単純化して言えば)、商業的には同じ芸能の仕事を食い合う国内コンテンツと海外コンテンツという見方もできる。
もちろん両方好きな人もいて。そういう人にとってはこんな線引きは恣意的でしかなくて、どちらも「好きな人」
ただ少なくとも私にとっては、そういう、日韓の距離を感じてしまう話題だし、自分が大好きなコンテンツの負の側面を直視しなきゃいけない話題ではある。
じゃあ、この文章で私はそれを直視する作業をするのかというと、やっぱり自分のアイデンティティが裂けてしまいそうなのでちょっとできそうにない。
元社長が亡くなったときだって、「そんなことはわかったから、その批判を私にやらせようとしないでほしい!批判してるあなたがたが直接事務所を批判してよ!!!」「私が加担者なのはわかったから、でもアクションなんか起こせないから。だからあなたがたが批判するのを止めないから、どうか勝手にやってよ。私に直接言ってこないでよ。」と心の中で叫んでいた。
普段はね、「フツーに生きてたら差別に加担するんだから意識的になんかしなきゃいけない」なんて自分に言い聞かせているくせにね。
でもやっぱりうまく自分の中で整合性を見出せない。
突然だけど、私が櫻井翔くん担当として最初に「社会」との接触点を見出した時の話を聞いてほしい。
櫻井君はNEWS ZERO内のイチメン!というコーナーで夫婦別姓を取り扱っていた。民主党政権の時代で、法制審議会まで行って、もしかしたら別姓が実現するかも、というニュースだったように思う。
いま考えると取り立ててリベラルなニュースでもない。両方の意見、「反対派によれば家族の一体感が崩れるという意見もあります」なんていったような。
でもその時の私には、結婚して女の人が苗字を変えなくていいなんてこと考えたこともなかったから、すごく心に残った。当時はこれが運命の出会いだなんて思わなかったけど、今考えたら運命の出会いだったのかもしれない。当時毎週毎週イチメン!は更新されるのに、いま覚えている2009年~2010年のニュースはそれだけだ。私は少し変わった苗字をしているので、このニュースを聞いた瞬間「じゃあ私は変えない!」と心に決めた。それが一体何に反抗していることになるのかも知らずに。
翌日は小学校の朝の会で、なにか2~5分スピーチをしなきゃいけなかった。だから私はこの話をした。当時からイキり野郎だったのでこのチョイスだったんだと思う。しかも「私の好きな櫻井くんはニュースとか読んでますアピール」をしたくてしょうがない時期だったので、そういう意図でやってたと思う。当時から痛さに余念のない私である。
それから私にとって「夫婦別姓」は常に気になるニュースになった。
そして今思い返せば、フェミニズム的イシューとの最初の出会いだった。
それ以降も、私は「私の好きな櫻井くんはニュースとか読んじゃってるアイドルなんですアピール」のためにコツコツとNEWS ZEROを見て、それを勉強するようになった。
高校3年のときには、その勉強の過程でひょんなことからインターネット上で「フェミニズム」という言葉に出会い、そのまま大学では勢いでフェミニズムを勉強するに至る。そして今。
だから私の葛藤は、皮肉なものだとも思う。
私のフェミは、言ってしまえばオタ活の一環だった。なのにオタ活までをも批判しなきゃいけなくなってしまうなんて。
一方で、私もすっかりフェミニストだなぁなんて思わなくもない。
ウーマンリブの女性たちもだけど、過去のフェミニストたちもみんな自分自身を見つめ直し、その痛みを無視しないでやってきたはず。(こんなときぽんぽん引用できないのでやっっべぇ勉強足りてねぇ~ってなってる)(田中美津の取り乱しウーマンリブ論とかにそういう記述があったというか)
フェミニズムをやるっていうことは、自分の生き方を一回否定しなきゃいけないほどの経験をするってこと。その切れ味を自分の生き方にも向けること。
私の場合、それは「男の前でついしおらしくなってしまう私」を変えるなんていう話とは少し違う。悪いがこれは自意識過剰なんだけど私にはジャニオタのアイデンティティがあるから(ジャニオタってアイデンティティなのか?それはアイデンティティ概念の盗用なんじゃないのという意見もありそうだが、私はずーーーーっと自分がオタクであること、ジャニーズのオタクであることにこだわってきて、その人生の経験があるのでそれをうまく言い表す言葉がないからこういう言い方になる。)自担とどう向き合うか、という問題だ。一般的な「男」じゃない。
はーーーーーーなんてスラスラ書いてみたもののめっちゃ難しい。
ちなみに私がいまA.B.C-Zにお熱いのも、少し逃げているような気がする。
嵐は、いつ政府広報に駆り出されてもおかしくないし、24時間テレビもやるし。もちろん彼らは細心の注意を払っているグループなのでそんなにストレスを感じることは彼らの表現物に対してない。でももし何かあったときの影響力が計り知れない。そんなことを考えてぞっとする時がある。
それに比べて、変な話聴衆が少ないA.B.C-Zは見ていてなんだか楽なのだ。彼らの方が不注意の多いグループなんだけど、そういう部分でぞわぞわしなくていい。若いファンも少なかったりするし。なんだか居やすい。
本質は個々のGがどうとかいう話ではないのであって。
産業構造の問題で、それに賛同するか否か。
悪いメッセージを発しない団体なら安心できるんじゃなくて、積極的なメッセージを出しているから好き、になれたらいいのにな。
「なれたらいいのにな」
なれない。
好きだから好き、でやってるのでこちとら。
好きになったら地獄まで一緒についていく覚悟でやっているのでこちとら。
そう、「推し」じゃない「自担」
自分の担当。どこまでも背負い込んでやっていくのが「自担」への責任。
彼らが地獄ごと飲み込んで、それでも人生かけてやってるステージに魅せられている私が、地獄にNOを言えるか?
天国風味地獄味のこのヤバイ味を知った私は退けるか?
その笑顔に、そのステージへの狂気に、その賭けに、魅せられた私は、地獄の底までついていく覚悟をした。
さて、地獄の底でも私は「フェミニスト」でいられるか?
「フェミニスト」でいるときに、この地獄味の公然の秘密の魔の味を楽しみ続けられるか??
ねぇ、こんなに素晴らしい魔の味なの。
彼らはきっと元社長の追悼も込めてやってるのよ。
lovelifeenjoooooy.hatenablog.com
ステージの光にあてられたばかりの私にはいささか無理がある質問を「フェミニズム」は私に叩きつける。
今の私は、そのまばゆすぎる光とそのおかげで周辺に漆黒の影を落とす世界を丸ごと愛さずにはいられないくらい、彼らに夢中だ。夢はさめない。
「好き」でいることと批判することは別だよ?って。
「自担」なんだよ、抱え込むんだ、背負うんだ、一緒に死にたい。そんな私にそんなことを言える??
どうかどうか夢よ覚めないで。
私が夢を見ている間に、私が抱え込んだ世界ごと誰か焼き尽くして。
ねぇ、だれか。誰か私ごとこのまばゆい世界を焼き尽くして。目が覚めたらみんなで地獄にいたいの。私は自分で死ねないの。ねぇ、誰か、誰か、芸能界丸ごとでもいい、吉本と抱き合わせでもいい。なんでもいい。
おい
そこの「日本のテレビつまんない」って言ってる人。
私を、私たちを殺して?今は夢を見ているの。痛くないから。
お願い。
わかってる。矛盾してるってわかってる。けど自分じゃどうにもできそうもない。
だからそこのあんたも、私と同じような覚悟で私たちを殺しに来て?
じゃないとこの圧倒的な光は、影を生み出しながら消えないよ?
ほらね。
このテーマで書いたエッセイは、ろくな結末にならないって。