こんばんは、ゆうです。
私は中学生の時から思っているのです。「偽善」ってなんなの?、と。
一体何が偽善で、何が善なのでしょうか。
その線は非常にあいまいで、簡単に決着なんかつかないと思うのです。そもそも、一体何が「善」なのかを明確に話せる人間が少ない中で「偽善」を決定できる人間はもっと少ないと思うのです。
だから、偽善なんて批判はやめてくれ。もっと建設的な話をしよう。と思うのです。
いやあね、なんでオタクのブログで禅問答みたいなことやってんのかってさ、
24時間テレビですよ!
特に24Hの方は、そういう批判も多いでしょうし、実際自分の好きな人がああいう番組のメインパーソナリティを何回もやっているわけですから私自身もずっと考えてきたことです。
「やらない善よりやる偽善」とはよく言うけど、それはそれで私は肯定するけど、基本的には私は「善は基本的にある側面から見たら偽善じゃね?」というスタンスなのです。特にこれは”大規模な善”にありがちだと。
うーーん、善も偽善もなくて、善は偽善だし偽善は善ではないでしょうか??と私は思うのです。
と、ここまで書いた下書きが「偽善てなんすか?」というタイトルで残ったまま数か月が過ぎ、もう8月末の24時間テレビの放送日になりました。
小学生のころは結構24時間テレビが好きで、親もこういう番組が好きだったからだと思うんですけど、段々いろんな意見を目にするようになったりして考えるきっかけが発生して、意見だけじゃなくて勉強もできるようになって学んで、段々24時間テレビを見るのがつらくなってしまったんですよね、。
やっぱり、全てを肯定できなくなってしまった。自分自身も櫻井くんの人生をある種消費しているわけだから、誰かの人生のあるストーリーを感動として消費することを真正面から批判はできない(それでも、芸能人と一般人は違うといえるかもしれない)。テレビはやはりエンターテインメントだしね。じゃあどこがダメで見にくいのかといえば、その見せ方の構造が今ある差別や問題点を内面化したままであること、マジョリティ側からの視点で作られたものがすべてではないがあること。
例えば今年でいえば、「小児ぜんそくを言い訳にしない」という言い回しや、「『普通』に山を登れる」という言い回し。VTRに紹介した個人は個人の生き方としてそれでいいし羽生選手に憧れていてもいい。個人の物語としては尊重されるべき物語だ。でもそれをマスコミで取り上げることは本当に辛く苦しんでいる人に対して「それは甘えだ、負けるな、頑張れ、『普通』にやれ」という社会の圧力を助長することにならないかだろうか。その圧力のせいで命を落としてる人も、さらなる差別や偏見に晒されて苦しむ人もいる。日本社会への問題提起を多くの人間が見るテレビでやるとしたら、そういう視点が考慮されてないのはさすがに詰めが甘すぎるといえないだろうか。
あるいはバラエティ。しゃべくりでの亀梨君オネェ疑惑は酷かった。「古い」価値観のバラエティをいつまでやるんだろう、オネェ=笑いもの、なりたくないもの、ってメッセージをお笑いで再生産してどうするんだろうって。その前の女性ゲスト云々のくだりで「コンパニオン呼ぼうか、石原さとみが来るならいいや」って女を性的なもの、「華」としてしか見てないの?綺麗なら1人で良くて、性産業に従事してる女性だと何人か来てほしいの??って。すごく残念に、苦しく思った。
ってなるのが「伝える」ですよね。
多くの人間に伝えようとする。わかりやすい構造にする、こぼれるメッセージがある。
多くの人間に伝えようとする、言葉を選ぶ、でも間違ったメッセージが伝わる。
多くの人間に伝えようとする、だから多くの人間がかかわる、みんなが同じ思いではいられないから全体をみるとボロが出る。
社会的な構造を助長する可能性も考えたけど、一人の少年が憧れのアスリートに有機をもらう物語を人々に見せたかったのかもしれない。
番組全体の趣旨よりも今までのお笑いがやってきたお笑いの型通りのことをして番組を盛り上げて笑いを届けることこそが、自分の芸人としての仕事だと思ったのかもしれない。
だからと言って許されるわけじゃないと、私は思う。
『普通』を強要する社会で健常者並みに何かができることを賞賛するんじゃなく、それぞれできることがあってっていう価値観を共有したりすればいいと思う。
林先生の企画や、かつて小山くんが手話に挑戦したみたいな健常者が障碍者の方へ行く企画みたいに。
「病気を言い訳」って言っていいよ。つらいときはつらいから、休もう、苦しいなら苦しくないやり方を探そう。根性じゃなくて、頭で。みたいなのもあったらいいと思う。
誰かを悪者にしなくても面白いお笑いをやってほしい、と思う。
で、この番組はいつかきっとそうなると思う。
だって番組冒頭に「私たちにはあなたに伝えたいことがあります。」って。
その思いが中の人にあることが何よりも大切だと思う。(もちろん企画の一部が誰かを追いやり傷つけていることに自覚的であってくれと思うけど)
伝えたいものがあって、そのために考えて学んで表現して。
時に自分の過ちにも気が付いて、で、また伝えて。
そういう思いがあれば、今まで40年間すこしづつ変わってきたみたいに少しづつ変わるよ、ってかトップが変わればもっと変わるよ。
ポテンシャルを感じる熱量を中の人から確かに感じたんだ。
なにより、こんだけの番組への偏見のなかでそれでも伝えたいんだ!ってやってて素敵な企画もたくさんある。
これからも、「伝える」ことのジレンマを抱えながら走っていってくれたら、なんて思った。
そんな風に思った最大の理由はもちろん
櫻井翔くんです。
日テレ櫻井くん大好きだし彼の周りにいるスタッフはとても頭の切れる素晴らしい人々だということがひしひしと伝わってくるからなんかこれからもにーよん大丈夫だなぁ、、、みたいなさ!笑 急にくそ楽観的。
いやだって櫻井翔さん超かっこよかったじゃないですか。
昔からだけど、彼は「伝える」ということのジレンマに自覚的。「伝える」ということは「伝わらない」ことであり、零れ落ちる伝えられない事実があるということ。
しかもアイドルの彼が伝えるのであれば、偏見もある。
それでも伝える。「伝えない」よりは、ずーーーっと素敵な未来への種をまけると信じているから。「伝える」ことが時に暴力的なことを自覚しながら、それでもなお「伝える」道を選んだ。
「お前!それは違うぞ!!」「お前が言うな!!」という石を投げられることを知っていて、それでもやる。
時にもしかしたら大切にしたい人をできない可能性をはらんでまで、やる。
私は、人を傷つけない覚悟より、傷つけてしまうことへの自覚と覚悟の方がずっと難しいと思う。
彼はその覚悟を持ってる。
思い上がりにも似た思い込みで自分を支えて、信じる「報じる道」に歩を進めた。
ジレンマを知ってる彼は強い。
そして何より、伝えたい思いがある彼は強い。
最強。かっこいい。
と、「伝える」とは....というあいさつを見て思った。
翔くんの企画はこれで何を伝えたいのか?ということを翔くんが短いことばで簡潔に言う。誤解が少なくなるし、わかりやすい。
「おじいさん、おばあさんと話してください。」
「ふるさとのために頑張るひとへエールを送る。」
24時間テレビを通して、真剣に、誠実に「伝える」と向き合う櫻井翔くんを感じられた。
すごくかっこいいと思った。
私は櫻井くんじゃないし、櫻井くんにはなれない。だからこそ、櫻井くんのなすことすべて、関わることすべてを肯定できなくてもいい。
でも、やっぱり私は櫻井くんが好きすぎて櫻井くんと不可分で、私には元から私の考えなのか、櫻井くんにもらった考えなのかわからない部分がたくさんある。櫻井くんになりたい自分もいる。
そんなことも感じた。
自分が何かを「伝える」時。彼の姿勢を思い出そう、と思った。
「伝える」とは難しい。
覚悟がいる。世界を変えたいと願うような正義感や善も、時に人を着ずつけるかもしれないという覚悟もいる。
不特定多数の目に触れて、石を投げられる。でも、血だらけの時でさえ立ち伝えなくてはならない。
未来にたくさんの花が咲くと信じて。
そんな「伝える」に携わる櫻井翔くんがめちゃくちゃ誇らしく思った24時間テレビでした。