トリッパー遊園地、見てきました!
まずは、河合くん、単独初座長おめでとうございます。
東銀座駅を出て、新橋演舞場に向かうと見えるそのビルの大きさに、劇場に入ると広がる舞台の大きさに感激しました。
なによりその大きな舞台のど真ん中でお芝居をする河合くんに、三方礼をする河合くんにぐっと来てしまった。はーーーーもう本当におめでとう。
本当に本当におめでとう。
河合くんはとても綺麗だった。綺麗な顔で、綺麗な涙を流し、無力さに震え、歌い、踊り、マサヒロをやりきった。
つくづく顔を綺麗な人を好きになったんだなぁと、正直劇中何度も思った。
白い首筋も綺麗。ツーブロックの下からのぞく、白くて綺麗。
タイトなスーツも、ルーズに着こなす国民服もセクシー。
ほんとにたまらん。やばい。
遊園地でのショータイム。
私は前々から「A.B.C-Zは身体一つでパフォーマンスができる。床と最低限の衣服があれば。」と信じてやまない。
マサヒロがなぜあんなに踊れるのかは謎だ。
でも、どんなにものが無くても、彼が、彼らが踊れば白タキシードに鮮やかな照明があるかのように錯覚してしまうほどのパフォーマンスが展開されるに違いない。そういう主観的な世界だとしたら、、と、都合のいい解釈をしてはほくほくしている。
そういう能力を持った河合くん演じるマサヒロが、1944年に行っても、ただその「人の力」で人を楽しませているのならそれはとってもA.B.C-Z的だなぁと。
ってか、ファンとしてフツーに沸いたわ。
カッコイイ。間違いない。間違いなくカッコイイ。たまらん。
辰巳くんとの相性もばっちり。たまらん。ファンとしては非常においしい。
解釈なんて二の次だ。実際ね。
こんな風にジャニオタ然とした感じでトリッパ―遊園地をエンジョイしているわけで(オタクライフENJOY至上主義)、でも一か所、とてつもなく怖い箇所があったのでそこは感想として記しておく。
パンフレットだかポスターの宣伝文句に「平成が終わる2019年でも変わらない普遍的な人間の物語(人情)」があるというような話があったと思うのだけど、私はこの物語は「平成が終わろうとする2019年にも関わらず相変わらず普遍的な誰かを『守る』という狂気」の話をしているような気がして、しかもそれが脚本・演出が無自覚なような気がしてとんでもなく怖くなった。
「戦争こわい。いけない。でも、人の心はあの時も今も。」で語られるのは、国家が犯した戦争という罪と、それに巻き込まれた生活。その生活は国家の意思とは無関係に、国家に抑圧されながらも不条理を感じながらも「けなげに美しく」生きていた、という物語。
戦争はそんなもんなのだろうか。
待つ女、戦う男。誰かを守りたい、何かを守りたいと思った時、人は強くなれる。喜んで戦争にだって行く。そういう個人的な感情、一人一人の「人間性」が、国家に利用されたのでは。誰かを守りたいと、強くなった兵士はアメリカに負けたかもしれないが、南の島の人に何をした?それは「守りたい」という「人間性」の裏返し、「生きたい」という人間の恐怖が生んだ残酷さ。
「ふるさとを守りたい」「女を守りたい」「周りと同じように自分も役に立ちたい」そういう素朴な、「人情」のような「人間性」がことごとく国家によって利用され、その場にいた人間は「人間的」な行為として戦争を遂行したのではないだろうか。
そんな「人間性」は2019年も見事健在。
最初は疑問を抱いていたマサヒロだって、最後は空襲のなか遊園地の電気を点けるために走る。必死で走る。
あの走りはマサヒロの特攻だ。生きるための走りじゃない。
わざわざ煽るようなセリフを言って、死にに行く。
2019年から来たって、「守るために」死にに行くことがこんなに美しい。
隠れながら「生きようと」走ることだってできたのに。
「無力」だから特攻するの?
「無力」だと涙に震える中で自分にできることは、一番最大でも「死んで」身の回りの人を守ることなの?
そしてオタクは思った。河合くん、死なないで。
「守るため」「夢を叶えるため」「みんなのため」ならあの綺麗な、強い、河合くんはなんでもやりそうな気がするのだ。
必死で死ぬための道を、避難ルートを逆走することだって厭わない人間性がある。
私が言うことじゃないかもしれない。
アイドルの美しさは、その過酷さと残酷さにあると思う日もあるのだ。
命を燃やして生きていること、「イメージの塊である」という存在と裏腹に見せる「人間性」の狂気が好きだ。
だからこそアイドルには願ってる。愛してるというファンの欲望に答えようと、燃え尽きたりはしないでね、と。あまりに他人事みたいな言い方だけど。
あなたの味方の欲望に焼き尽くされないで、と。
A.B.C-Zのためなら空襲の中、防空壕とは逆方向に走りそうな彼とマサヒロを重ね、2019年も健在の、普遍的な「人間性」を利用されないで!と思ってしまった。
恋も、家族愛も、同胞愛も、ふるさとを思う気持ちも、誰かを守りたいと思う気持ちも、そういう「人間らしさ」は70年以上経っても美しい。涙が出る。
普遍的だ。
だからこそ、そういう気持ちを簡単には権力に譲ってしまわないぞ、というのが戦後ではなかったか。「人間らしさ」に抗ってでも「死なない」「死を喜ばない」ことが「個人の尊厳」だとしたのが戦後ではなかったのか。
ほのぼのとした世界観の観劇を終えて、優しく温かい気持ちの中で私の中に残った違和感は、70年以上経っても「人間らしさ」に絡めとられる自分の怖さだった。
平成が終わろうというのに、まだまだ私は「遊園地」の中にいる。
温かい人間、美しい国土、誰かを「守りたい」気持ちに涙する温かい世界。
自分から望んで楽しんでいた世界、ぐるぐると繰り返すうちに、このユートピアをまもるためなら「なんだってできる」となるまであと一歩。
無邪気でわかりやすく美しい世界は、実はかなり怖いのかもしれないな、とピエロを見た後の何とも言えない怖さみたいなものを胸に残して私は新橋演舞場遊園地を後にした。