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フェミニズムは居心地がわるい

 

ジェンダー法学会に2日間行ってきた。

 

感想としてはフェミニズムは居心地がわるいってことだ。そもそもそういうものなのだ。

 

だからこそ、フェミニズムには意味があるのだと思う。

 

私にとって初めて出会ったフェミニズムは救いであり、革命であり、今までの私に自己肯定感を与えてくれる、「フツー」じゃない私だってそれでいいよ、と言ってくれる居心地のよいものだった。

その居心地のよさがあったからこそ、それなりに本を読んだり、勉強会に行ったり出来たのだ。居心地のよさが私をジェンダー法学会へと導いた。

 

もちろん、「女とは誰か?」を問うてきたつもりだ。複合差別だってそう。女はひとつじゃない。分かり合えない。分かり合えないが、自分に刻まれた歴史性やら構造やら特権やらを見つめて、追い詰めて見えてくる主体性を持って、違うままに手を取り合いたい、というのがフェミニズムだと考える。

田中美津が「孤立を恐れず連帯する」を「わかってもらおうと思うが乞食の心」とした、あの感じだ。たぶん。

 

私たちは違う。

女だからって手を取れない。

ましてやネオリベなうのこの時代だもん。

 

 

 

ただやっぱりどんなに本を読んでも、あるいは自分とは違うマイノリティ属性を有する友人たちとぺちゃくちゃ喋ってても覚悟しきれないような、というかそういう会話では不可視化されてしまっている溝があるのだ。

 

そういう溝をのぞき込んで、よく見渡せばあちらこちらに溝があって、女子高ではしゃいでいるような気分でシスターフッドを夢見ていた私は青ざめる。

 

 

1日目はセックスワーク論。

「日本のフェミニズムネオリベと親和的だ。」

セックスワーカーの問題をフツーの女の不快感の問題にしないで欲しい。」

 

という訴えに、私は居心地の悪さを感じたのだ。非当事者の女の態度が問われたとき、それがフェミニズムの批判であったとき、私は内心狼狽えていた。心の中ではそんなことない!と言っていたかもしれない。

後の質疑応答で、アイデンティティが立ち上がる時の話や自己決定の有無に関わらずまず全肯定しなきゃならない、という話が明らかになりそこに「理論」を見いだした時、私は落ち着いた。それまでの時間、私は自分の中の差別者、抑圧者のグロテスクな姿をまざまざと見つめて過ごすしかなかった。

 

そしてなぜ私は「理論」を見出して落ち着いたのか?当事者支援者のストレートな訴えに、拒否反応を示し、わかりやすい言葉で話せ!を求めていたのは他でもない私なのだ。

 

差別者な自分と向き合わなければならない、フェミニズムは居心地がわるい。

 

 

2日目。

メディアと表現の自由を巡る議論。質疑応答で憲法学の志田先生に対し「実際の性犯罪でも起訴率が低い。あるいは警察にキャバ嬢が行っても取り合って貰えなかったということ、あるいはAVがお手本になっている現実がある中で犯罪かそうじゃないかというような分け方では現実の被害者を救えないのではないか?」という質問が飛んだ。

志田先生はあくまで学術的な議論を担当するという意味で憲法学で表現の自由をやって来たものとしての考えであると答えた。

 

そして、質疑応答の時間でフロアから性被害の告発があった。

フロアは沈黙してそれを聞き、拍手なく終わり、時間が来たのでシンポジウムはまとめに移った。

 

 

私は逃げ出したい気持ちになった。

 

私はこの2日間とてもとても「楽しかった」のだ。ワクワクして、ウキウキしてしょうがなかった。

あちらこちらに私が読んだ本の著者や、有名な本の訳者がいる。いつもTwitterを見ている人も。気になっていた論点の議論が目の前でそうした面々により行われ、またまた筋のいい質問が飛ぶ。知らないことを知る喜び、知的な刺激、見えてくる課題、繋がる経験、、、とにかく本当に本当にエキサイティングだった。

ちなみに、私は弁護士を含めて市民活動系の発表や運動論ぽいものは日頃から耳にしたり脚を運んだりすることが多いので、あえて避けた。

法哲学憲法。あるいは国際私法と民法。マッキノンとコーネルを論じ、明治時代の国際私法を検証し、二重氏について学んだ。

頭をプスプスさせながら必死についていく理論は面白く、時間はあっという間に過ぎた。

 

 

楽しくってよかったんだろうか。

 

私がこんなに知的好奇心を刺激されまくって浮かれていられるのはひとえに私の特権性故なのだ。

 

この2日間で私の頭は整えられスッキリしたけども、現実の暴力は止まらない。

 

 

学問は、人を救うんだろうか。

 

先生方は理論が、学者としての表現行為がきっと社会を変えると思っている。

私もそう思っている。学問は抽象的な無価値な議論じゃない。市民活動が、被害者を弁護士につなぐとき、弁護士が困難な裁判でたたかう構成の手助けにも、直接的にはくみするかもしれない。

市民が運動をする時の指針にもなる。

きっと。

 

それでも歯がゆい。怒りや悲しみを受け止めるにはあまりに法はかたい。

法律の議論は冷たい。

 

そこに物足りなさを感じてしまう。

 

 

たまに法学の気持ちになってしまって(?)もうそんなに求めないでくれ、そんなに出来ないよ、それは別の学問に言ってよ!と言いたくもなるくらい強大なパワーを持つ法の期待も大きい。

だからこそ物足りなさは苛立ちに変わる。

 

 

市民、実務家、研究者、、、立場が違えば見える世界も違う。きっとあの場にいた人は平等で暴力のない世界を願わない人はいないと思う。それでも当然に分かり合えないから、腹をすえた議論は居心地のわるさも引き起こす。

 

 

それでいいと思う。

それがフェミニズムだと思う。

その居心地の悪いまま、それがここに集まってるということなのだ。

 

 

市民も実務も研究者も居心地がわるい分かり合えなさの中で必死にもがいてる。

 

じゃあ私は?

 

 

 

 

 

 

 

ここまで書いて書きっぱなしにして、フェミニズムの居心地の悪さを考えながら12月を過ごしている。

 

先日の授業、日本における嫌韓嫌中について留学生を交えて議論になった。

フェミニズムの授業でフェミニズムを語るとき、「ここにいる全員同じ!仲間!分かり合える!」という錯覚を起こす。それが如何に錯覚であるのかを、ナショナリティーの違い、そしてお互いの国が背負う歴史、そこと個人は決して同一ではないもののなんらかの責任をおう日本国籍を持つ「わたし」

 

 

わからないまま

居心地の悪いまま

手を繋ぐような連帯はできるんだろうか?

 

想像も出来ないような痛み、異なる経験、それに徹底的に耳を傾け、差別者としての自分も問い直す。

それがフェミニズムだと思う。

 

過去のフェミニズムがそうであるように、今のフェミニズムにもそれは問われている。

そういうことを忘れない、居心地の悪さから逃げ出さない私でいたいと思う。

 

ジェンダー法学会からは逸れちゃった、、