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好きなものなんでも書く場所になってます

愛は自由だ。

 

こんばんは。

わたしです。

 

 

「担降り」の定義がわかりません。

 

「担降り」は、今まで自分の応援していたアイドルを今までほど応援しなくなること、ですか?今まで乗っていた船から降りるように。

「担降り」は、新しいアイドルを好きになり、新しい人を熱心に応援することですか?新しい沼に降り立つように。

あるいは、今まで応援していたアイドルを今までほど応援しなくなって(または完全に応援をやめて)別のアイドルを新しく熱心に応援することですか?今までの船を降り、別の新天地に降り立つかのように。

 

 

私も昔このブログで一番最初の意味で「担降り」という言葉を使ったけど、最近いろんな「担降り」ブログなるものを見るうちに「担降り」の定義(ここでいうのは「担降りは誰かを愛することをやめることじゃないとかそういう哲学的なことではなくて、一般的な意味)が分からなくなりました。

誰か教えてください。

 

 

 

そんな私がお送りするこのブログ。決して、「担降り」ブログではないです。嵐ファンやめる宣言も、えび担になる宣言も、嵐ファンやめてえび担になる宣言もしません。

 

いわば、そのどの選択肢もとることが出来ない私が考えたこと、的な。

 

 

「担降り」出来ない私がたどり着いた答えが、愛は自由じゃん。です。(なんてたいそうな事を言うんだー!)

 

 

 

オタクのブログなんて誰も聞いてない自分語りと考察を惜しげもなく披露する場所だと思うので書きまーす。

 

「担当」って言葉から、愛とカテゴリとアイデンティティを考えたい。

 

 

「担降り」ブログって、どの意味合いのものも見てて面白い。へ~こんな考えもあるんだ、ああその視点はなかった、これは理解できない、、とかいろいろあって本当に楽しい。でも、そういうの見るたびに、「担当って一人じゃなきゃだめか...。」とか、「掛け持ちっていってもなんだかんだメインは決まってるのか...。」とか思う。

話は担降りブログではなくなってしまうけど、こないだえび担のお友達とお話ししていました。「私の周りのA.B.C-Zだけ追ってる、昔はいろいろやってたけど今は一本に絞ってるとかの友達はやっぱ命かけてるっていうかさ~。お金と気合いの入れ方がほかのグループとは違うっていうか、負けないよね。」と。お友達に悪意は全くないんです。でもやっぱり、なんつーか、「一つに絞ってなんぼ」なのかなぁ...というのを私はその会話で感じてしまった。ていうか、私も昔は、正直なところ掛け持ちさんを軽蔑してた。そして、いざ自分がその身になると迷いはありつつも、なんだかんだあっという間に二兎を追い始めたのは違和感もあった。

話を担降りブログに戻すと、他にも、「今までみたいに必死で追えなくなったから嵐担降りてお茶の間ファンになるけどFC名義は残して現場は行けたらいいなぁ」とか、「担当を降りた瞬間に軽くなった気がした。だってこれからはエイトについて何も言う資格がないから、もう悩まなくていい」とか見ると、『担当』って言葉はめちゃくちゃ重たい言葉で、担当を名乗るからには必死になって熱心に応援して、そのグループがもっと輝くために、もっと良くなるために悩んで、テレビ局やなんかにもイライラして、時間、体力、精神力、そしてお金のすべてをつぎ込み、人生を捧げる覚悟でいなきゃいけない。そういう『担当』の重さ、『ファン』の軽さを、数々のブログから感じます。

この文脈から言えば、多分、今の私はA.B.C-Z担当で、嵐ファン、なんだと思います。大体ね。そして、かつては間違いなく「嵐担」だった。泣き、叫び、苦しい思いもたくさんしながら、最高の喜びの瞬間をかき集めて、お金体力時間精神力のすべてを嵐につぎ込んだ。嵐の未来を考察し、どうすれば自分が彼らのとって最大の利益をもたらすことが出来るかを考えて生きていた。

 

 

 

 

 

ここで思ったんですが、そもそも「ファン」や「担当」って誰に決められるの?誰に名乗らされてるの?

自分で名乗るもん、だよね。自分で自分にはるレッテル、みたいなもん。

自分で自分に「ファン」とか「担当」とか「お茶の間ファン」とか自分の立ち位置を決めて、Twitterとかのつながりタグとかbio欄とかに載せるあれ。

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親に付けられた名前とか、生まれたときに医者に判断されて書類に書き込まれる性別とか、もっというと出身地とか血液型とかと違って、自分で自分に付けてあげる名前。自分で自分を「櫻井担」というカテゴリーの中に入れる。「嵐ファン」に、「えび担」に、自分を入れる。

漠然とした、誰かが決めた基準の「担当」や「ファン」に自分を押し込めて、これでいいのかな?違うかな?って思いながら「○○担」でいるのってなんだか苦しい。

結局、「担当」って自分で自分につけてあげる名前なのだから、もっともっと、もっと自由になってもいいじゃん、って。

自分が「担当」や「ファン」という言葉に縛られて苦しい時にそう思った。

 

でもね、なかなか自由になれない。だって「担当」とかそういうのって、自分がどっぷり漬かって生きているジャニオタという社会の慣習であり、強い文化だから。

現実世界でいうジェンダーみたいなもんかなぁって個人的には思ってる。女とか男とかは生まれた時に決められるじゃん!って思うかもしれないけど、推しや担当って「ジャニオタという社会」に生まれた時には決まっているもの、とも言うことが出来る気がするから。

今どき、色んな考えが進んで、個人が個人らしく生きていくことが出来るはず。だけどそれは理想で、私だってそんなに長く生きてないけども「女の子なんだからちょっとは料理を手伝いなさい」「女の子なのにいい大学に行くのね」とか。「女だから〇〇」を求められる。求められている気がする。

ジャニオタという社会の中では、「ファン」だとここまでの熱意が許されて、「担当」だとそれ以上の熱意が許される。

それでいい、言葉ってそういうもの、名乗るってそういうもの、って思う人もいるかもしれない。てか、ジェンダーの例えが無理があるというツッコミもお受けする。

 

 

 

とりあえず、私にはすべてが窮屈だ。苦しい。

私に貼られる、あるいは私が私自身に貼った、貼らなくてはならない気がするすべてのレッテルが。

 

「女」で、「97Line」で、「櫻井担」で「えび担」で、「〇〇大学の学生」で、「相葉な県民」で、、、、。

 

 

私は自分を「えび担」とも「嵐担」とも言うことが出来ない。それが苦しい。だから今ここで一生懸命考えてる。カテゴリーに頼らずに、強く私が私として様々な社会で生きるために。

 

苦しくなったのには、きっかけがある。

 

I'll be thereのご披露である。

 

 

初めて見た感想が「悔しい」だった。

 

すでに国民的と呼ばれて久しい嵐の新曲が、シングルとしては今までにない曲調で、オタクの心を掴んでいた。パフォーマンスも、今の嵐が出来る範囲の中できっちり揃えられるレベルの独特な振り付けで世界観もばっちり。既存ファンの心を掴むばかりか、小説家ファンまでをも新規に獲得する勢いまで見せる一曲。トップのトップたる一曲だった。

 

それが悔しいと思った。

ずるいと思った。

 

こんなんじゃ、嵐はまだまだ退かない。まだトップにいる。そしたらなかなか世代交代が起こらない。うちのA.B.C-Zが、あの事務所のたくさんの若手が、どんどん歳をとってしまう。上が詰まってしまう。その場所を、早くA.B.C-Zにくれないかな?そう思った。

嵐よりももっともっと挑戦して、新しいアクロバットも出来るようにして新曲出してるA.B.C-Zにその場所が欲しい、と思った。実際、嵐がどいたからと言って、えび以外の後輩も他の事務所のタレントさんもたくさんいるのに。そもそもえびが目指す場所は決して嵐と「同じ」なんかじゃないのに。短絡的で、まさに"モンペ"な発想だった。

モンペな私は「えび担」だと思った。そのままA.B.C-Zの未来を考え出した私は「えび担」だと。

 

 

 

そして、永遠に味方だと誓っていた嵐の足を引っ張るようなことを考えた私は裏切り者で、最低だと思った。ひどいヤツだった。嵐がこれまでどんな思いをしてここまで来たか知ってるのに、どんな努力をして「トップに居続けている」のかを知ってるのに、足を引っ張ろうとした自分は、全然「嵐担」じゃなかった。

人の心は、意外と簡単に移り変わるのだと知った。そして、忍び寄る「担降りのプレッシャー」に耐えかねて、本格的に担降りを検討し始めた。

 

 

その次の日、えび担さんと遊んだ。ひょんなことから「4月からのドラマが、嵐と亀と山P頼みって……。情報解禁された時は嬉しかったけども、正直事務所には焼き直しじゃなくてもっと若手を売って欲しいよね…」という話題になった。

そのまま私はI'll be thereの話をした。嵐が最高のパフォーマンスをしてて、全然交代が起こる気配がない、という話を。

 

「でも世間はいい加減嵐には飽きてるよね。」

 

 

と、言われた。

 

そんなこと思いもしなかった。そんなこと1ミリも思わずに嵐の新曲を褒めちぎった私は、なんだかんだ「嵐担」な気がした。自担が最高だと信じて疑わないのは、オタクの特技だから。

そもそも「悔しい」という感想は、「えびが負けてる」と認めたことになる?え、そういうこと?…そんなことない、A.B.C-Zは最高……。でも、悔しい、にはその意味がある。え、じゃあ私は「えび担」じゃなくて「嵐担」なのか。そもそも掛け持ちオタクなんだから、えび担でもあり嵐担でもあるのか。。。

 

 

自分が中途半端過ぎて苦しくなった。

私は、私は、、私の「担当」はなんだ…?

 

 

生活は確かに「えび担」なのだ。友人に毎日お気に入りの河合くんの画像を送り、A.B.C-Zの曲を聞きながら電車に乗る。黒髪の塚ちゃんを見れば、キレッキレで踊る五関様を見れば絶叫し、SASUKEでは号泣、少クラの郁人くんを美人美人言いながら写真に納める。

でも、私の身体を流れる血は真っ赤だった。それは櫻井翔の色だった。今までの思い出と、思いとちょっとの傷が私の身体だった。思考回路、エンターテインメントを見る基準、、すべて嵐だった。

 

 

 

 

 

 

 

自分の担当が分からなくなった。

 

 

 

 

 

そして、今回のブログの冒頭のようなことを考え始めた。「えび担」とも「嵐担」とも言うことが出来ない私が、カテゴリーであるそれらの言葉に頼らないです強く生きる術を考えようと思った。

 

「えび担」や「嵐担」がカテゴリーを示す言葉なら、レッテルなら、その下に、他でもない「わたし」がいるはずだ。

 

 

はっ、と気がついた。

 

 

わたしは、櫻井翔が好きだ。

わたしは、河合郁人が好きだ。

わたしは、A.B.C-Zが好きだ。

わたしは、嵐が好きだ。

 

 

それで充分じゃないか。今は。

 

「櫻井担」の前に、「河合担」の前にいる 「わたし 」が、彼を好きだ。

 

 

以前、クソDDの友人から「自担ってなんだと思う?」という哲学的な質問をされた。その時、私は河合くんを好きになったばかりだったので確信を持って答えた。

「わたしの魂を揺さぶった人」

 

 

今回いろいろ考えてそういうことだと改めて思った。わたしの魂みたいなものが、彼の魂みたいなものに惹かれていると感じる瞬間。

たくさんのレッテルに塗れて誰もが生きている中で、その下の魂みたいなものにピンッと来るときめき。それで、充分なのだと。

実際に未来を共に歩んで行けるかわからない、でも、永遠を誓いたくなるような、そんな魂の震えさえあれば充分だと。

きっと生まれ変わっても、あるいは私がどんな性別に生まれていたとしても、必ず惹かれていたと確信出来るような瞬間があればいい。

 

 

愛は自由だ。

 

「担当」では、「ファン」では表現出来ない、はみ出すような愛もまたきっとあっていいはずだ。

自由でいいんだ。他人に迷惑をかけなければ。

 

 

掛け持ちオタクを始めた時、"平等に"二つを愛するためにポリアモリーの本を読んで参考にしていた。

ポリアモリーは、3人以上で育む愛のこと。理性的、とか誠実に、とかいう言葉が印象に残ったのでそれを参考にして、掛け持ちオタクをした。

 

でも、私はそんなに器用じゃなかった。

 

 

 

同時に同じ熱量をあげられない私は、正しい「掛け持ちオタク」からこぼれ落ちたように感じた。辛かった。

 

 

でも、もう大丈夫な気がする。

「掛け持ちオタク」の前の わたし と向き合うことが出来たから。

参考にした本や、他のオタクの皆さんと同じようなことが出来なくても私は、翔くんが、河合くんが好きだ。大好き。

 

 

愛は自由なのだから、自由に彼らを愛していこう。

 

 

今の私は、「えび担」でも「嵐担」でも「掛け持ちオタク」でもない。

A.B.C-Zが大好きな人、だ。

嵐が大好きな人、だ。

 

 

え、それって「えび担」じゃん、「嵐担」じゃん、「掛け持ち」じゃん、と思われる方もいるかもしれないが……まぁ他人がそう思ってる分には全然構わないけど、自分の感覚として1回そういうオタクの言葉から自由になろうかなぁ、って私が私自身について思ってるって話です。

 

私が女の子に告白しても、わたしがわたしをレズビアンと形容するかはまた別、っていう感じ。

 

 

 

自由に、愛したい。

 

 

私は、私の血が赤いのは翔くんのイメージカラーが赤だから、嵐との思い出が私の血を赤くしてると思ってる。

そんな身体で、耳にA.B.C-Zの歌声を流し込んで、赤いコートをヒラヒラさせながら電車に乗る。星を5つあしらったカバンを肩からかけて。

 

 

 

中途半端、とも言えるかもしれない。でも、既存の言葉からははみ出て、溢れてしまうような、上手くはコントロール出来ない私のA.B.C-Zや嵐への思いを、無理に既存の言葉に押し込めたくない。

だってとってもとっても大切だから。

彼らへの気持ちは、ジャニオタは「わたし」の大切な一部で、いわばアイデンティティみたいなもので、大切に大切に表現したいから。ジャニオタって、趣味というより生き方だから。生き方を表現する言葉は、ゆっくり選びたい。窮屈さも、苦しさもいらない。

 

 

「担当」だから、レギュラーを見なきゃいけない、WSを追わなきゃいけない、未来を考察しなきゃいけない、現場には必ず行かなきゃいけない、、、、それが出来ないから「担当」じゃないから「担降り」して楽になろう。、、じゃあ「お茶の間ファン」、、。

 

そういう窮屈なの、やめちゃえばいい。

 

すき、 の気持ちさえあれば自由に愛せばいい。

私はそう思った。

 

 

いらぬお節介だが、もしそういう言葉に窮屈さを感じたり、苦しさを感じてるひとがいるなら、自由になればよいんでない?と私は言いたい。

 

 

常々、「女子力」とか「女らしさ」とか「〇〇らしさ」みたいなステレオタイプからどんどん自由になりたいと思っている小賢しい私だからかもしれないけれども、ぼーーっと、「担当」ひとつでこんな風に考えてしまった。そして書いて整理したくなったので、ブログの記事にした。

 

世の中に色んな人がいるように、色んなオタクがいる。ひとりひとり違うオタクが。

オタクとは、共通点を見つけて語り合うためのコミュニティだとは思う。

だけど、ひとりひとり違うのだから、それぞれが好きなように愛せばいい。

「担当」を名乗っても、名乗らなくても。一般的な?基準に当てはまっても、当てはまらなくても。

「◯◯担だから~~だよね」のステレオタイプに当てはまっても、当てはまらなくても。

わたしはわたしらしく、彼らが好きだと叫んで生きていこう。

そして、私は誰かを「ファン」じゃない、と切り捨てたりしないようにしよう、そうしよう。

 

 というか、オタクライフだけじゃなくて、人生をそうやって、もっともっと私も他人も自由になるために生きていけたらいいなぁ、と思った。

 

 

 

 

 ゆっくり、自由に、僕たちは恋したい。

 

 

 

 

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よくわからないブログにお付き合い頂きありがとうございました。

 

私は牧村朝子さんという文筆家の方がだいっすきでして、今日書いたことも多分彼女にめちゃくちゃ影響されてます…笑

「百合のリアル」 という著書がとても素敵です。ってか、わかりやすく、このカテゴリーの話をしています。ジャニオタっていうよくわからん愛の形にどっぷり浸かって生きている私にとって、いい意味で衝撃的で自分を肯定的に捉えられるようになったきっかけの本です。よかったらww って謎のステマしてもーたよ!もう!

 

 

百合のリアル (星海社新書)

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